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足利義昭の子孫の生涯!足利家のその後や義尋・義喬・義在・秀行についても

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足利義昭の子孫にはどのような人たちがいるのか?また、その後・生涯はどのようなものだったのか?

今回は、足利義昭の子孫たちはどうなっていったか、その生涯について紹介していきます。

また足利義昭の死後、足利家はどのようになっていったのか解説します。

足利義昭の子孫と義喬・義在・秀行の生涯

足利義昭の子孫とされている人物にはどのような人がいるのでしょうか?

義喬・義在・秀行の生涯についても見ていきます。

足利義昭の子孫は誰か:4人の子供

約240年続いた室町幕府は戦国時代の末期に滅び、第15代・足利義昭が最後の将軍となりました。

義昭は自分で将軍職を朝廷に返し、61歳まで生きることが出来ましたが、その子供や子孫はどんな人生を送ったのでしょうか。

今回は滅びた幕府の将軍の子孫が、その後どうなったのかを見ていきます。

 

実は義昭の子供の数ははっきりと分かっていません。

というのも義昭には正室がおらず、側室もほどんどがどんな女性だったのか分かっていないのです。

確実に息子だと分かっているのは、跡継ぎである足利義尋だけです。

それ以外にも、3人の息子がいたという説があり、この説が正しければ義昭には義尋、義喬、義在、秀行という4人の息子が居た事になります。

しかし、義尋以外の3人は足利以外の姓を名乗る事になりました。

そして義尋の子供達、つまり義昭の孫は子孫を残していないため、義昭を先祖とする足利家は滅びた事になります。

ですが残りの3人の家は、足利家ではなくなったものの長く続いたようです。

義喬・義在・秀行のその後と生涯

義喬は義昭の家臣であった一色藤長に育てられ、そのまま一色という姓を名乗ります。

その子孫は更に姓を変えて、会津藩(現在の福島県西部、新潟県および栃木県の一部を治めた藩)に仕えたそうです。

 

義在は父の元を離れて薩摩の国(現在の鹿児島県)に向かいます。

そこで永山家の婿養子となりました。

そして子孫は西南戦争に参加したそうです。

 

秀行は矢島姓を名乗りました。

矢島家は近江の国(滋賀県)の有力な一族で、義昭が興福寺から脱出した直後から力を貸した家のため、義昭が京都を追われた時に息子の秀行を預かったのかもしれません。

秀行の母が矢島家の娘であった可能性もあります。

そして九州で活躍した戦国武将、立花宗茂と深く関わっています。

秀行の娘は宗茂の後妻となりました。

更に宗茂は、子供が出来なかったため多くの養子を迎えたのですが、秀行の孫娘も宗茂の養女になります。

そして今川義元の子孫と結婚しています。

 

このように義昭の子孫達は、江戸時代以降は政治の表舞台に立つことはなく、特別な扱いを受ける事も無かったようです。

正確な記録が残っていない事と合わせても、大きな活躍をする事は無かったのでしょう。

逆に言えば、庶民として平和な生活を送ることが出来たと言えそうです。

足利義尋の生涯と足利家のその後

足利義昭の子孫として史実の残されている足利義尋の生涯について見ていきます。

また、江戸時代を含めて足利家そのものはその後どうなったのか、滅亡したのか解説します。

足利義昭の子孫の生涯:僧侶から一般人へ

足利義昭の息子の中で、足利という姓を名乗り続けたのは義尋だけでした。

そして足利将軍家の子孫という記録が正確に残っている人物でもあります。

その記録によれば義尋の息子たちは子供を遺しておらず、ここで足利本家の家系は途絶えた事になっています。

ここでは足利本家の最後の子孫となった、義尋とその子供達の生涯を見ていきます。

 

足利義尋は元亀3年(1572年)に生まれました。

父・義昭はすでに室町幕府の将軍になっていましたが、織田信長と仲が悪い状態で、義尋が生まれた数か月後には信長との戦が始まりました。

義尋は将軍家の後継ぎとして育てられますが、義昭が負けて降伏すると信長に人質として預けられ、わずか1歳で出家させられます。

 

義昭が京都から追放された後も、義尋は京都に残されました。

信長は将軍の息子を政治的に利用しようと考えていたようです。

義昭が居なくなっても幕府は残っており、武士にとって形式上一番偉いのは将軍という状況に変わりはありませんでした。

そこで信長は、義昭の代わりに義尋を将軍にして、その上に信長が立つという政権を創ろうと考えたようです。

しかし、朝廷が信長の権力が更に大きくなる事を恐れ、義尋を将軍にする事を拒否したと言われています。

 

このように、幼い頃から時代の流れに翻弄された義尋ですが、僧侶として修行を積み、奈良県の興福寺の大僧正になります。

1588年に義昭が将軍を辞職し、室町幕府が完全に滅びると、20代後半ごろには僧侶から一般人に戻り、公家の娘と結婚しました。

そして妻との間には2人の息子が生まれますが、33歳の若さで亡くなりました。

死因は分かっていませんが、前年に息子が生まれている事から、事故か急病であったと考えられます。

しかし徳川家康が江戸幕府を開き、上洛して朝廷に挨拶を済ませた直後に死んでいるため、もしかすると暗殺された可能性もありそうです。

 

義尋の息子、つまり義昭の孫は2人とも僧侶になりました。

義尋の妻は後に天皇の妃となったため、2人は皇室とも強い関係を持ち、兄の義尊は実相院、弟の常尊は円満院という、格式の高いお寺の住職を任されました。

そして、戦国時代に戦で荒れた寺院の復興に力を尽くしました。

 

義尊も常尊も子供を遺さなかったため、足利家の本家の家系はここで途絶える事になりました。

しかし彼らは、戦国時代から江戸時代へと移っていく中、将軍家の血を引く者として、平和な時代を迎える準備のために生涯を捧げたように思います。

足利義昭の死後と足利家のその後:関東の足利家は存続

足利義昭が亡くなった後、その孫の代に足利義昭の家系は途絶えました。

しかし室町幕府の初代将軍・足利尊氏を先祖とする、別の足利家はまだ残り続けています。

何故、本家である義昭の家系が残らなかったのでしょうか。

 

これは、義昭が亡くなってから6年後の1603年に、徳川家康が江戸幕府を開いた事と関係があるようです。

家康は幕府を開いたものの、実質的に天下を統一したのは、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした1615年です。

そして室町幕府が出来た頃から、関東地方には足利家が長官を務める政治機関がありました。

実はこの関東の足利家と、京都の足利本家は仲が悪く、戦国時代には完全に独立した勢力となっていました。

 

そんな関東の足利家ですが、関ヶ原の戦いで家康に戦勝祝いの使者を出したことから、徳川家と親密になっていきます。

徳川家としても、江戸幕府を開いたばかりの頃はまだ家康に反対する勢力があり、それを抑えるために足利家とは仲良くしておく必要がありました。

更に関東で元々権力を持っていた家と親しくした方がメリットが大きく、徳川家は次第に義昭の足利本家よりも、関東の足利家の方を重んじるようになりました。

前の幕府のトップだった足利家の血筋を大切にするとしても、わざわざ義昭の家系を保護する必要はないと判断したのでしょう。

こうして関東の足利家は、江戸時代に一時「喜連川」という姓に変更するものの明治維新まで大名として存続しました。

さらに現在も足利家として残っており、子孫は東海大学の学長にもなっています。

皇室と深い関わりを持ったものの大きな後ろ盾を持たなかった義昭の家系と、次の時代のトップとなった徳川家についた関東の足利家で明暗がはっきりと分かれました。

しかし、義昭の妻子に関する記録が曖昧であるということは、自分の血筋を積極的に残そうとは考えていなかったのではないでしょうか。

そして、幼い頃から権力に振り回された義昭の息子・義尋、寺の住職としての仕事を全うした2人の孫は、歴史の表舞台に出る事よりも、日々を平和に過ごす事を望んでいたようです。

義昭の家系は途絶えましたが、それは不幸な事ではないように思います。

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まとめ

・足利義昭の子孫は誰か:4人の子供

確実に息子だと分かっているのは、跡継ぎである足利義尋だけです。

それ以外にも、3人の息子がいたという説があり、この説が正しければ義昭には義尋、義喬、義在、秀行という4人の息子が居た事になります。

・義喬・義在・秀行のその後と生涯

義昭の子孫達は、江戸時代以降は政治の表舞台に立つことはなく、特別な扱いを受ける事も無かったようです。

・足利義昭の子孫の生涯:僧侶から一般人へ

義尋は将軍家の後継ぎとして育てられますが、義昭が負けて降伏すると信長に人質として預けられ、わずか1歳で出家させられます。

・足利義昭の死後と足利家のその後:関東の足利家は存続

足利義昭が亡くなった後、その孫の代に足利義昭の家系は途絶えました。

しかし室町幕府の初代将軍・足利尊氏を先祖とする、別の足利家はまだ残り続けています。

 

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シゲゾウ
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