足利義昭

足利義昭は本能寺の変・黒幕?明智光秀や織田信長との関係についても

室町幕府・最後の将軍でもある足利義昭は、明智光秀と織田信長の両方ととても深く関係する人物です。

今回は、足利義昭と明智光秀・織田信長の関係を紹介します。

また、足利義昭が本能寺の変・黒幕説の根拠や3人にまつわるエピソードについても解説します。

足利義昭と明智光秀の関係

足利義昭と明智光秀の関係:将軍になるため利用

明智光秀が足利義昭の家来だった事もあり、「本能寺の変の黒幕は足利義昭だった」という説も出ているくらい、義昭と光秀には深い関係があります。

義昭は元々は奈良県の興福寺で僧侶をしていましたが、兄で第13代将軍だった足利義輝が暗殺された事で、将軍になる事を決意しました。

しかし、当時の京都は義輝を暗殺した三好三人衆(京都近辺を支配していた三好家の重臣たち)の影響が強く、義昭も命を狙われていました。

そこで義昭は、越前国(現在の福井県北部地方)の大名・朝倉義景を頼ります。

朝倉家は初代室町幕府将軍・足利尊氏の頃から幕府に協力的だったため、義昭は義景が自分を将軍にしてくれると思っていたようです。

 

ところが一揆の鎮圧などで忙しかった義景は、なかなか京都へ出陣しようとはしませんでした。

義昭は他の大名に頼る事を考え、尾張国(現在の愛知県西部地方)・美濃国(現在の岐阜県南部地方)で勢力を拡大していた信長に、協力を求める事にします。

その時に信長との交渉役を務めたのが、朝倉家に仕えていた光秀でした。

信長との仲を取り持ち、義昭が将軍になるために力を尽くした功績を認められ、光秀は室町幕府に仕える家臣となりました。

足利義昭が明智光秀を認めた理由・エピソード

そして光秀が義昭の家臣として大活躍をし、信長にも実力を認められた事件があります。

それは本圀寺の変という事件です。

義昭が将軍になった翌年の永禄12年(1569年)正月、信長は自分の本拠地である岐阜へ帰りました。

1月5日に義昭が寝泊まりしていた本圀寺を、信長がいない隙を狙った三好三人衆が襲いました。

この時、義昭を守って戦ったのが光秀です。

三好勢の軍が1万人だったのに対し、義昭を守る家臣はたった13名だったそうです。

それでも光秀の指揮で本圀寺を守り抜き、翌日の1月6日には京都近辺から続々と援軍が駆け付けました。

こうして、光秀の活躍により義昭は命拾いをしました。

またこの事件がきっかけとなり、光秀は幕府の家臣でありながら織田家にも仕える事になります。

そして光秀は、織田家の中で出世していくようになりました。

本能寺の変の黒幕は足利義昭説の根拠:密書

その後、義昭が信長により京都から追放された事で、以降の義昭と光秀には接点が無いように思えますが、なんと本能寺の変が起こった後の、2人の関係を示す資料が見つかっています。

それは光秀が本能寺の変が起きた10日後に、反信長派の武将である土橋重治に宛てて書いた密書です。

この資料を簡単にまとめると

  • 光秀は義昭に協力を約束している
  • 義昭が京都に向かうなら、他の武将に命令があるはずだ

という事が書かれています。

この、光秀が義昭に協力を約束した時期がはっきりと分かっておらず、もし本能寺の変が発生する以前から2人が連絡を取り合っていたとしたら、義昭が命じたのではないかというのが、義昭黒幕説の根拠とされています。

いずれにせよこの資料からは、光秀は義昭を再び京都へ迎え入れて、室町幕府の将軍として復帰させようと考えていた事が分かります。

義昭としても以前は家臣として自分に仕え、命の危機から救ってくれた光秀であれば、信用してもいいと考えたのではないでしょうか。

光秀も義昭を利用するだけのつもりだったのか、本当に室町幕府自体の権力を取り戻すつもりだったのかは分かりませんが、世の中を治めるには義昭の力が必要だと思っていたのではないでしょうか。

足利義昭と織田信長の関係や理由とそのエピソード

足利義昭と織田信長がつながったそもそもの理由は何か?

また、2人の関係性はそもそも悪かったのか、悪化していった理由やエピソードは何だったのでしょうか?

足利義昭が織田信長を頼った理由:室町幕府の父

足利義昭が将軍になれたのは、織田信長の協力があっての事でした。

しかし、義昭を京都から追放したのも信長です。

 

義昭は信長を頼る前にも、将軍になるために様々な大名から力を借りています。

この時期に義昭が頼った大名は、室町幕府と古くから関わりがある名門であったり、幕府から役職を貰っている大名ばかりでした。

そんな中、幕府との繋がりもなく、名前が知られ始めたばかりの信長を頼った事は、義昭にとっては大きな賭けだったと思います。

 

永禄11年(1568年)7月25日に義昭が岐阜へ到着すると、信長は

「義昭公が住むのにふさわしい屋敷を建てる事は簡単だが、この国に長く住んでもらうつもりはない。少しだけ我慢して欲しい。」

と伝えます。

その言葉通り、ひと月半後の9月7日には義昭を連れて出陣し、9月26日には京都へ到着しました。

義昭が岐阜へ到着してからたった2ヶ月です。

この非常に素早い対応が、信長に対する信頼に繋がったのだと思います。

 

義昭は無事に将軍職に就いた後、信長に感謝して室町幕府の父という称号を与え、更に副将軍にしようと申し出ました。

しかし信長は副将軍という立場には興味がなく、これを断って代わりに和泉国(現在の大阪府南西部)の支配権を貰いました。

和泉国は貿易港であった堺の街を中心とし、経済活動が盛んな国だったため、ここを支配した信長は更に力を蓄えることができました。

立場や役職を重んじる義昭と、実際の利益を重視する信長という、2人の性格の違いがよく表れていると思います。

足利義昭と織田信長が仲が良いエピソード:本圀寺の変

この頃の義昭と信長の関係がとても良かった事は、義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変での、信長の対応からも分かります。

信長は義昭が襲われた事を聞くと、岐阜から京都まで昼夜問わず走り続け、普通は3日掛かるはずの本圀寺に2日で到着しています。

真冬であったため、信長と共に出陣した兵士の中には凍死者も出たそうです。

そして再び将軍が襲われるような事がないようにと、信長が義昭のために建てたのが、京都の二条城です。

足利義昭と織田信長の関係悪化の理由:交渉での意見の食い違い

しかし室町幕府を中心とした体制を作り、自分が頂点に立ちたいと考えていた義昭と、あくまで幕府は天下統一の道具にすぎないと考えていた信長の間には大きな思惑の違いがあり、次第に仲が悪くなっていきます。

永禄12年(1569年)8月に信長は伊勢国(現在の三重県)の北畠氏を攻めますが、予想外の抵抗にあい、10月に和解しています。

この時、仲介役となったのが義昭でした。

しかし、この交渉で意見が食い違ったことで義昭と信長が対立します。

これが関係悪化の始まりでした。

 

信長に不満を持った義昭はしばらくの間は協力関係を続けていきますが、元亀2年(1571年)頃から各地の大名に対し、信長と対立するように勧める手紙を送ります。

これが信長包囲網と呼ばれる、反信長連合になっていきます。

対して信長は17条の意見書というものを出して、義昭を批判しました。

更にこの意見書を世間に公表する事で、義昭は将軍に相応しくないとアピールします。

 

元亀4年(1573年)2月、ついに義昭は信長を倒すために兵を集めて戦い始めます。

結局この戦いに負けた義昭は、京都から追放される事になりました。

しかし、その後も協力してくれる大名を探して各地を転々とし、信長に抵抗を続けていきました。

 

信長は結局、義昭を殺さずに追放しただけで済ませましたが、2人の関係を義昭の立場から見ると、室町幕府のために尽くしてくれると思っていた信長が、実は自分が権力を持つために義昭を利用していたと分かって、裏切られたと思ったのではないでしょうか。

そして義昭は信長を許すことができず、なんとしても倒したいと考えたのでしょう。

室町幕府の権力を取り戻したい気持ちと、個人的な恨みの両方を持った義昭が本能寺の変の黒幕だと言われるのも分かる気がします。

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まとめ

・足利義昭と明智光秀の関係:将軍になるため利用

信長との交渉役を務めたのが、朝倉家に仕えていた光秀でした。

・足利義昭が明智光秀を認めた理由・エピソード

そして光秀が義昭の家臣として大活躍をし、信長にも実力を認められた事件が本圀寺の変です。

・本能寺の変の黒幕は足利義昭説の根拠:密書

光秀が本能寺の変が起きた10日後に、反信長派の武将である土橋重治に宛てて書いた密書です。

・足利義昭が織田信長を頼った理由:室町幕府の父

義昭は無事に将軍職に就いた後、信長に感謝して室町幕府の父という称号を与え、更に副将軍にしようと申し出ました。

・足利義昭と織田信長が仲が良いエピソード:本圀寺の変

この頃の義昭と信長の関係がとても良かった事は、義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変での、信長の対応からも分かります。

・足利義昭と織田信長の関係悪化の理由:交渉での意見の食い違い

信長は伊勢国(現在の三重県)の北畠氏を攻めますが、予想外の抵抗にあい、10月に和解しています。

この時、仲介役となったのが義昭でした。

 

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