室町幕府・最後の将軍でもある足利義昭は、明智光秀と織田信長の両方ととても深く関係する人物です。
今回は、足利義昭の最後・最期はどのようであったのか、その余生や死因を紹介します。
また、墓所・墓石の特徴や戒名の意味についても解説します。
足利義昭の最後や死因・余生
足利義昭の最後・最期について、また死因や余生について見ていきましょう。
足利義昭の最後・最期:秀吉の相談役
織田信長の力を借りて、室町幕府の将軍となった足利義昭。
彼はその後、信長と争うことになり京都から追放されました。
その後どのような人生を送ったのかはあまり知られていませんが、意外にも長生きをして豊かな余生を送っています。
今回は晩年の義昭について詳しく見ていきます。
義昭は元亀4年(1573年)、織田信長に京都から追放されました。
まだ36歳だった義昭は、その後も将軍の位を保って信長に抵抗し続け、天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死ぬと、各地の大名に京都へ戻るため協力してくれるよう要請します。
しかし、すぐに豊臣秀吉が天下統一へ動き出したため、なかなか京都へ戻る事は出来ませんでした。
天正14年(1586年)、秀吉が九州を攻めた際に、義昭が抵抗を続けていた島津家との仲を取り持った事で、2人は親しくなり、天正15年(1587年)10月、秀吉の力を借りて50歳で京都へ戻ることが出来ました。
そして年が明けた天正16年(1588年)1月、ようやく将軍の位を朝廷に返して出家しています。
代わりに朝廷からは准三后という称号を貰い、皇族と同等の待遇を受けました。
そして秀吉からは山城国槇島に1万石の領地を貰いました。
その後は秀吉の御伽衆、つまり話し相手を務めています。
前将軍という事で、広い領地や権力を持つ大名達よりも良い待遇を受けていたようです。
しばらくは表舞台から遠ざかりますが、文禄元年(1592年)に秀吉が朝鮮出兵を始めると義昭にも出陣要請がありました。
この時、義昭は肥前国名護屋城(佐賀県唐津市にあった城)に赴きました。
久々の晴れ舞台だった事もあり、とても機嫌が良かったそうです。
しかし実際に朝鮮へ渡ることは無く、自身の屋敷があった大阪に戻ります。
そして慶長2年(1597年)8月、61歳で亡くなりました。
足利義昭の出家後の余生:囲碁や将棋
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ちなみに出家後の余生は、趣味や娯楽などを楽しんで過ごしたようです。
義昭の趣味は将棋の駒作りだったそうで、駒作りの名人だった公家に象牙の駒を依頼した記録も残っています。
また秀吉が将棋好きだったこと、囲碁の名人であった本因坊算砂と秀吉が対局した事が伝わっているため、御伽衆だった義昭も囲碁や将棋を楽しんでいた可能性は高そうです。
一度政治の表舞台から追放された将軍にしては長生きをしており、隠居生活を楽しむことが出来たのは、とても珍しい事です。
こうして見ていくと、義昭は案外したたかな人物だったように思います。
足利義昭の死因:丁腫物
足利義昭は、体に出来た腫れ物が悪化して死亡したと伝わっています。
これに関して、「死因は丁腫物」と記録されている資料があります。(『日用集』)
丁腫物とは目頭・鼻・口の周囲などに出来る腫れ物の事です。
脳や脊髄に細菌が入り込むリスクが高く、高齢者など抵抗力が弱くなっている場合は、髄膜炎や脳炎などを併発して死に至る事があります。
義昭の場合は
- 腫れ物が出来てから十数日で亡くなった。
- 老体で肥前(佐賀県)まで軍を率いて向かったため、かなり体力が落ちていた。
- 亡くなったのは8月で、腫れ物が痒くて掻いてしまう可能性が高く、細菌が繁殖しやすい季節だった。
という点と合わせて考えると、かなり信憑性が高い死因だと思います。
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足利義昭の墓所・墓石の特徴や戒名の意味は?
足利義昭の墓所はどこか?
墓石の特徴や戒名の意味を紹介します。
足利義昭の墓所はどこか:広島や山口の俊龍寺
足利義昭のものだと言われている墓は、広島県や山口県にいくつも存在します。
例えば広島県安芸高田市の天下墓や、義昭の屋敷があったと伝わる広島県福山市などにあります。
その中で確実に義昭のものだと分かっているのは、山口県山口市の俊龍寺にあるお墓だけです。
義昭は京都を追放された後、中国地方で大きな勢力を持っていた毛利家に助けを求めました。
その時、備後国(現在の広島県東部地方)に亡命政府を作り、将軍としての政治活動や、京都へ戻るための工作活動を行っています。
そのため毛利家が治めていた中国地方と義昭の関係は深く、義昭の死後にいくつものお墓が造られたようです。
俊龍寺の墓は毛利家の家臣・柳沢元政が建てたものですが、彼は元々は義昭に仕えていた人物です。
元政は毛利家当主・毛利輝元の命令を受けて足利将軍家の法事を担当していたのですが、義昭が亡くなった後、元の主君のために自分の領地にお墓を建てました。
足利義昭と京都・等持院:歴代将軍の木像
俊龍寺以外で義昭の墓所とされているのが、京都府京都市北区の等持院です。
このお寺は室町幕府の初代将軍・足利尊氏が建てたお寺で、歴代将軍の木像が安置されています。
教科書や参考書などによく載っている足利義昭の像は、このお寺にあるものです。
ここには足利家十五代供養塔という形で、歴代将軍と併せて弔われています。
俊龍寺のお墓と等持院の供養塔、どちらも義昭を室町幕府の将軍だった人物として、死後も敬意を持って建てられたものだと言えます。
室町幕府最後の将軍で、織田信長に京都から追放された事から、無能な人物だと思われがちですが、周囲からは将軍としてしっかり評価されていたのではないでしょうか。
足利義昭の墓の特徴:無縫塔
足利義昭の墓の形や戒名からも、どんな人物だったのか伺い知ることが出来ます。
俊龍寺にあるお墓は、義昭の兄で第13代将軍・足利義輝の墓と、義昭と義輝の母の墓と並んで建てられています。
義昭、義輝、そして母の墓は、すべて同じ形状で無縫塔と呼ばれる形をしています。
この形は禅宗の教えを表わしたものだそうです。
足利将軍家は代々臨済宗という禅宗の一派を信仰してたため、この形のお墓が建てられたのではないでしょうか。
お墓を建てた柳沢元政が、足利家を強く敬っていた表れでもあると思います。
足利義昭の戒名の意味:霊陽院昌山道休
そして、義昭の戒名は「霊陽院昌山道休」と言います。
足利将軍家の戒名には一定の法則があります。
ほとんどが「××院×山道×」という形をしています。
たとえば、金閣寺を建てた義満は「鹿苑院天山道義」、銀閣寺を建てた義政は「慈照院喜山道慶」です。
特徴的なのは道「休」の部分です。
他の将軍が「恵」や「照」など、ポジティブであったり行動的なイメージの漢字を用いているのに対し、義昭は「休」という平穏なイメージを持つ字を使っています。
義昭は将軍職を返した後、出家して昌山道休と名乗りました。
つまり自分で休という字を用いることを決めているのです。
室町幕府の将軍という位にこだわった義昭が、その重圧から解放されて、政治の表舞台から退く決意をした事。
そして秀吉が天下を統一していくのを見て、戦国時代が終わり、平和な時代が訪れるのではないかと期待している事。
義昭は「休」という字に、そういったメッセージを込めたのではないでしょうか。
長年織田信長に抵抗しながらも、実際に平和な世の中が近づいてくると、潔く身を引いた義昭。
彼もまた自分なりのやり方で戦国時代を終わらせようと、必死に頑張っていたのだと思います。
まとめ
・足利義昭の最後・最期:秀吉の相談役
秀吉からは山城国槇島に1万石の領地を貰いました。
その後は秀吉の御伽衆、つまり話し相手を務めています。
・足利義昭の出家後の余生:囲碁や将棋
出家後の余生は、趣味や娯楽などを楽しんで過ごしたようです。
・足利義昭の死因:丁腫物
足利義昭は、体に出来た腫れ物が悪化して死亡したと伝わっています。
・足利義昭の墓所はどこか:広島や山口の俊龍寺
広島県安芸高田市の天下墓や、義昭の屋敷があったと伝わる広島県福山市などにあります。
その中で確実に義昭のものだと分かっているのは、山口県山口市の俊龍寺にあるお墓だけです。
・足利義昭と京都・等持院:歴代将軍の木像
俊龍寺以外で義昭の墓所とされているのが、京都府京都市北区の等持院です。
・足利義昭の墓の特徴:無縫塔
義昭、義輝、そして母の墓は、すべて同じ形状で無縫塔と呼ばれる形をしています。
・足利義昭の戒名の意味:霊陽院昌山道休
そして、義昭の戒名は「霊陽院昌山道休」と言います。
義昭は「休」という平穏なイメージを持つ字を使っています。
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