松平広忠は徳川家康の父にあたる人物ですが、実の息子である家康を人質に出してしまうような冷酷非道な性格というイメージがあります。
今回は松平広忠の特徴や有能さ、能力はどれほどのものだったのか?
また、今川義元との関係が築かれた理由を解説します。
松平広忠の特徴や能力、政治や武将としての評価
松平広忠の特徴や能力はどれくらいだったのか?
また、政治家や武将としての評価の高さについて見ていきましょう。
松平広忠の特徴や肖像画:記録は残っていない
松平広忠は、江戸幕府初代将軍である徳川家康の父にも関わらず、肖像画などが残っていません。
また身長や体格など、見た目に関する記録も残っていません。
広忠は若くして亡くなった事もあり、謎の多い人物です。
体格に関しては、息子・家康の身長が159cm、孫の二代目将軍家忠が158cmと伝わっているため、広忠の身長も恐らく160cm弱だったと推測できます。
戦国時代の平均身長が155cm~157cmである事を考えると、広忠は平均的な体格だったため、あえて記録に残す事は無いと考えられた可能性があります。
このように平均的な体格の人物だったと推測される広忠ですが、武将としての能力も平均的だったのでしょうか。
松平広忠の能力・政治や武将としての評価
広忠は三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市)という小さな地域の領主でした。
朝廷から位を貰ったのは家康が将軍になってからなので、当時はそれほど偉い立場ではありませんでした。
しかし広忠の家臣は、松平家に代々仕え続けた人物が多いという特徴があります。
特に広忠の父・清康の代から松平家に仕えた家臣達は、とても忠誠心が高かったと言われています。
清康から家康まで、3代に渡って仕え続けている人物もいる事を考えると、10歳で家を継ぐことになった広忠を見捨てなかった家臣達の存在はとても心強かったと思います。
また広忠に当主に相応しい才能があったからこそ、家臣達は10歳の少年に仕え続けたのではないでしょうか。
浄土真宗との関係:家康と違って寛容
広忠の特徴として、新興宗教であった浄土真宗に対して比較的寛容だった事も挙げられます。
浄土真宗は仏教の一派で、一向宗とも呼ばれ、戦国時代に一般庶民や地方領主達の間で広まった宗派です。
彼らは、たびたび武装して一揆を起こしました。
これには多くの戦国武将が悩まされ、息子の家康や織田信長は一向宗を弾圧し、徹底的に戦っています。
対照的に広忠は、浄土真宗の三河の重要拠点であった3つのお寺
- 本證寺
- 上宮寺
- 勝鬘寺
に対して、権力の介入をしない約束や、税の免除などの特権を与え、一向宗と良い関係を築こうとしました。
周りに敵が多かったため、領地内ではなるべく争いごとを起こしたくないという考えがあったのかもしれません。
しかしこの政策から、広忠が武力で領民を従わせようと思っていなかった事が分かります。
松平広忠への信長や家元からの評価:殺さず利用したい
これらの事から広忠は、領民や家臣に愛された良い領主だったのではないかと思います。
優秀な領主であったことは、人質になった息子・竹千代(のちの徳川家康)の扱いからも分かります。
広忠の治めていた三河国は、尾張国(現在の愛知県西部地方)の織田信秀、駿河国(現在の静岡県中部地方)の今川義元という強力な武将に挟まれていました。
特に信秀は何度も三河に攻めてきたため、広忠は義元と協力して織田家と戦っていました。
ところが竹千代が護送中に織田家に奪われ、人質にされてしまうという事件が起こります。
信秀は竹千代を返す代わりに、今川家を裏切って織田家に付くように迫りました。
しかし広忠はこれを拒否します。
普通であれば人質としての価値のない竹千代は、信秀に殺されてしまうところですが、信秀は竹千代をそのまま織田家に残します。
見せしめのために殺す選択もあったはずなのに、あえて生かして手元に置いたのは、信秀が三河地方を支配した時には、広忠にそのまま領地を治めさせようと考えていたのではないでしょうか。
そして竹千代は広忠が死んだ後に、今川義元の命令で織田家から奪い返されました。
義元は竹千代を殺して松平家を滅ぼし、領地をそのまま自分の支配下に置くことが出来たはずです。
しかし奪い返した竹千代を自分の元に置いて、松平家との協力関係を続けていく事を選びました。
更に広忠の死後、岡崎城には今川家から城主代行が派遣されましたが、実際に政治を行っていたのは広忠の家臣達でした。
これは広忠を慕っていた家臣や領民に、反乱を起こされたくなかったからだと考えられます。
これらの事から、広忠は周囲の武将にも「討ち取るのではなく、自分に従わせて三河地方の政治を任せたい」と思われた、優秀な人物だったのでは無いでしょうか。
松平広忠と今川義元の関係や今川家に支援を求めた理由
松平広忠と今川義元の関係が続いた理由は何か?
どうして今川家に支援を求めたのでしょうか?
松平広忠が今川家を頼った理由:吉良持広の影響
松平広忠は父・清康が急死し、たった10歳で家を継ぐことになった上、本拠地である岡崎城を奪われました。
広忠が自らの城を取り戻すために助けを求めたのは、駿河を本拠地とする戦国武将・今川義元でした。
広忠は何故、義元を頼ることにしたのでしょうか。
それは自分を助けてくれた吉良持広という人物の影響が大きかったようです。
広忠は岡崎城を追い出された後、家臣達に助けられながら逃亡生活を送っていました。
そんな広忠を保護したのが吉良持広です。
広忠は成人した時に、持広から一文字をもらって「広」忠と名乗ったほど、彼を尊敬していたようです。
吉良家は同族の間で、西条吉良家と東条吉良家という2つの家系に分かれて争っていました。
持広は、このうち東条吉良家の当主でした。
そして西条吉良家は織田家に付き、東条吉良家はそれに対抗するため今川家と協力関係にありました。
松平広忠と今川義元の関係:織田家と対抗するために利用
この頃の今川家は、三河の隣国である遠江(現在の静岡県西部地方)にまで領地を拡大し、強大な力を持っていました。
力を借りられるのであれば、これほど強力な相手は居ません。
しかし当時の今川家は、隣国の領主である北条家や、領地内の反義元派の武将との争いが続いており、これに対抗するために義元は、三河地方の領主たちと友好的な関係を築きたいと考えていました。
広忠が岡崎城を取り返す事に協力すれば、義元は大きな恩を売ることが出来ます。
こうしてお互いの利害が一致した事で、広忠は義元の力を借りることが出来ました。
しかし、このとき義元の力を借りた事で、広忠は生涯、織田信秀と戦い続けることになりました。
義元は北条家との関係が良くなり、領地内の反乱も収まった事で、三河地方へも進出したいと考え始めます。
そんな義元にとって、何度も三河に攻めてくる信秀はやっかいな存在です。
そこで、今川家に借りがある広忠を信秀と戦わせることで、今川家の兵力を使わず織田家に対抗し始めます。
今川家と織田家の戦には必ず広忠も参加しており、松平家が今川家に従う立場になっていたようです。
広忠が、息子の竹千代(のちの徳川家康)を人質にされても、織田家に降伏しなかったのは、今川家には逆らえない立場だったからとも考えられます。
今川義元から連歌を学んだ
一方で、広忠が義元から受けた影響には良いものもあったようです。
広忠は連歌が好きだったようで、自ら連歌会を主催しています。
連歌会自体は誰でも開催できますが、それなりの知識と腕前が無ければ恥をかいてしまいます。
主催者はかなりの腕前が無ければ務まらず、連歌師という専門家に任せる事も多かったそうです。
しかし、自分で主催を務めることが出来た広忠は連歌が得意だったようです。
広忠は公家文化を愛した義元から、文化人としての教養を学んだのではないでしょうか。
また、広忠と連歌に関しては、面白いエピソードがあります。
ある日、称名寺というお寺で連歌会が行われ、広忠も出席しました。
そこで広忠が詠んだ歌を見た住職に、「息子の名前は竹千代にしたらどうか」とアドバイスされたと言われています。
広忠は、岡崎城を取り戻す際に今川家の力を借りた事で、以後は今川家に逆らえなくなり、苦しい思いをしました。
しかし今川家に尽くした事で、広忠が若くして亡くなった後も松平家は滅びずに残りました。
そして息子は大人になった後、今川家から独立し、徳川家康と名乗る戦国大名になりました。
こうして見ると、広忠が今川家に助けを求めた事は正しい選択だったと言えそうです。
まとめ
・松平広忠の特徴や肖像画:記録は残っていない
松平広忠は、江戸幕府初代将軍である徳川家康の父にも関わらず、肖像画などが残っていません。
また身長や体格など、見た目に関する記録も残っていません。
・松平広忠の能力・政治や武将としての評価
広忠の家臣は、松平家に代々仕え続けた人物が多いという特徴があります。
・浄土真宗との関係:家康と違って寛容
広忠の特徴として、新興宗教であった浄土真宗に対して比較的寛容だった事も挙げられます。
・松平広忠への信長や家元からの評価:殺さず利用したい
広忠は周囲の武将にも「討ち取るのではなく、自分に従わせて三河地方の政治を任せたい」と思われた、優秀な人物だったのでは無いでしょうか。
・松平広忠が今川家を頼った理由:吉良持広の影響
そして西条吉良家は織田家に付き、東条吉良家はそれに対抗するため今川家と協力関係にありました。
・松平広忠と今川義元の関係:織田家と対抗するために利用
広忠が岡崎城を取り返す事に協力すれば、義元は大きな恩を売ることが出来ます。
こうしてお互いの利害が一致した事で、広忠は義元の力を借りることが出来ました。
・今川義元から連歌を学んだ
広忠は公家文化を愛した義元から、文化人としての教養を学んだのではないでしょうか。
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