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織田家と徳川家の同盟が成立したのは松平広忠の首が返されたから?墓所や寺についても

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松平広忠は徳川家康の父にあたる人物ですが、実の息子である家康を人質に出してしまうような冷酷非道な性格というイメージがあります。

今回は、広忠の遺体がどのように扱われたか、麒麟がくるでの信長が討ち取った広忠の首の扱いや史実と織田・徳川の同盟関係への影響を検証します。

また、松平広忠の墓所・寺はどこなのか?5つの寺の歴史や墓石の特徴を解説します。

織田家と徳川家の同盟が成立したのは松平広忠の首が返されたから?

麒麟がくるでは、松平広忠の首を信長が討ち取ったとされています。

史実でも広忠の首は信長の手元に渡った記録が残っているのでしょうか?

また、織田家と徳川家の同盟が成立したことと広忠殺害にはどのような関係があるのでしょうか?

広忠の死は隠蔽された?:織田家との関係

織田家と徳川家の同盟の話をする前に、まずは広忠の死と首が信長の手に渡った流れを見ていきましょう。

広忠の死については諸説あり、明確にこれが死因だと断定することはできません。

「麒麟がくる」では、その中でも可能性が高くストーリー展開上も面白くなると言う想定で、織田信長が関わっていたという案が採用されています。

このことを裏付ける証拠として、「松平広忠の墓所」があります。

それは広忠の死を隠そうとした痕跡があることです。

 

広忠の死因は病死とも、家臣に殺害されたとも言われており、はっきりと分かっていません。

しかし、広忠が死んだ事を隠すため、遺体は密かに大林寺に運ばれたと伝わっています。

更に、夜中にこっそり遺体を運び出し、月光和尚というお坊さんの庵で葬儀を行ったそうです。

後にこの場所に松應寺が建てられましたが、埋葬された当時は土を盛り上げただけだったと言われています。

 

広忠の居城である岡崎城から大林寺までの距離は0.5km、松應寺までは約1kmで、遺体を隠して移動する事が十分可能な距離です。

また、これらの場所が岡崎城から見て北側にある事にも、広忠の死を隠そうとした意図を感じます。

岡崎城の周辺には2本の川が流れており、北東には山があるため、遺体が運ばれた場所はスパイなどが潜入しづらい地形になっているのです。

 

では、一体なぜ広忠の死を隠そうとしたのでしょうか。

実は岡崎城から西へ7kmほどの場所に、織田家が拠点としていた安祥城があります。

安祥城から広忠の遺体が運ばれた方角へ向かおうとすると、まず大きな川があり、その後、岡崎城の近くを通る事になります。

つまり、遺体は織田家から見つかりにくい方角へ運ばれています。

 

広忠が死んだ天文18(1549年)3月には織田家と今川家の間で大きな戦いがあり、今川家が約1万の軍勢で安祥城を攻めました。

松平家は今川家と協力関係にあったため、この時も今川軍と一緒に安祥城を攻める予定だったはずです。

ところが当主である広忠が急死し、戦をしている場合では無くなりました。

 

広忠自身が最初に岡崎城を奪われた時も、父・清康が亡くなって松平家内部が混乱している状態を狙われています。

そこで、この時も混乱状態を狙って岡崎城を攻められることを恐れた家臣たちが、織田家に広忠が死んだ事を知られないよう、遺体を隠そうとしていたのではないでしょうか。

信長が広忠の首をとった理由:史実には残されていない

大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長が広忠の首をとり、父・信秀に捧げるシーンがありました。

実際には広忠の首に関する記録は残っていません。

「遺体が運ばれた」とだけ伝わっているので、首があったのか無かったのか、分かっていないのです。

しかし、広忠の死を必死に隠そうとした事や、目立たないように火葬された事などから、首をとられていた可能性はあります。

首をとられていたとしても、広忠の死の根拠がないのであれば「その首は偽物だ」と主張することができる余地があります。

 

実は、信長に首を取られた事がはっきり記録されている武将がいます。

それは、広忠の協力者でもあった今川義元です。

義元は桶狭間の戦いで信長に負けて首を取られました。

その後、義元の首は本物かどうか確認された後、晒し首にされました。

これは間違いなく義元を討ち取った事を証明するためでもあったそうです。

「麒麟がくる」で信長が広忠の首をとったのも、殺害した相手は間違いなく広忠であると、父・信秀に伝えるためだと言えます。

広忠の死は松平家にとってはピンチですが、織田家にとってはチャンスです。

もし広忠の死因が暗殺だったとしたら、黒幕が信長であってもおかしくはありません。

そして、信長であれば広忠を殺害した証拠を欲しがった可能性が高く、大河ドラマで描かれた通り、広忠の首はとられたのではないでしょうか。

信長と家康の同盟成立の年に広忠寺建立:信長が家康に首を返した

信長はのちに、広忠の息子である徳川家康と同盟を結びます。

しかし、この同盟には家臣の間で反対の意見が強かったそうです。

織田家と松平家は、広忠と信秀の代には何度も戦った相手なので当然の意見です。

この同盟が結ばれる助けになったのは、もしかすると「広忠の首」だったのかもしれません。

実は、墓所の一つである広忠寺が建てられた永禄5年(1562年)というのは、この信長と家康の同盟が成立した年です。

反発した松平家の家臣達を納得させるために、信長は広忠の首を返す事にしたのではないでしょうか。

それを供養するため、家康が新たに広忠寺を建てたとしても、不思議ではないと思います。

記録に裏付けられた説ではありませんが、広忠の首が織田家と徳川家の中を取り持ったのだとしたら、のちの徳川家に大きな影響を与えた事になります。

若くして亡くなったため謎の多い松平広忠ですが、意外な形で家康の天下統一に貢献していたのかもしれません。

松平広忠の墓・墓所・寺はどこ?

松平広忠の墓・墓所と関係がある寺はどこなのでしょうか?

松平広忠の墓所・寺の特徴と違い:5か所の寺

徳川家康の父・松平広忠の墓は、

愛知県岡崎市の

  • 大樹寺
  • 大林寺
  • 松應寺
  • 法蔵寺
  • 広忠寺

という5か所のお寺にあります。

現在の岡崎市の大部分は、広忠の領地だった三河国額田郡に含まれていました。

 

また、5つの墓所の内、

  • 大樹寺
  • 大林寺
  • 法蔵寺

松平家代々とゆかりがあるお寺です。

それに対して

  • 松應寺
  • 広忠寺

家康が建てたお寺です。

このように先祖代々の墓所と後から建てられた墓所が、自身の領地に集まっているというのは珍しく、広忠の墓の大きな特徴です。

大樹寺の特徴やエピソード

これらの広忠の墓所の中で、特に有名なのが大樹寺と松應寺です。

大樹寺は松平家先祖代々の供養が行われてきたお寺で、室町時代に一時廃れてしまいましたが、広忠の父・清康が復興しました。

徳川家歴代将軍の位牌も納められており、松平家と非常に縁の深いお寺です。

 

また大樹寺には、家康との関係を示す有名なエピソードがあります。

桶狭間の戦いに今川軍として参加していた家康は、大将の義元が討ち死にした後、大樹寺に逃げ込みました。

そして先祖代々の墓の前で自殺しようと考えたのですが、住職に諭され、生き延びて平和な世を築く決意を固めたという話です。

その後、家康は織田信長と協力して天下統一を目指し、最後は自身が天下を取りました。

家康は大阪の陣で豊臣家を滅ぼした後、この大樹寺の墓所を直して、松平家初代当主・親氏ちかうじから父・広忠までの墓を建て直しました。

松應寺の特徴やエピソード:松の木が墓の代わり

松應寺は、広忠の葬儀が行われた場所に建てられたお寺です。

永禄3年(1560年)に家康によって建てられ、江戸幕府を開いた後の慶長10年(1605年)に広忠の墓所などが整備されました。

松應寺の墓所は「松平広忠公御廟所」と呼ばれていますが、非常に珍しい形をしています。

墓石やお堂は無く、鳥居の奥に松の木が立っており、そこでお参りするようになっているのです。

 

この松は家康によって、松平家の繁栄を祈って植えられたものだと言われています。

家康は、広忠が死んだ時には織田家の人質として尾張(現在の愛知県西部地方)にいました。

その後、駿河(現在の静岡県中部地方)の今川家に送られる途中に、広忠が埋葬された場所に立ち寄り、小さな松を植えた事がはじまりだと言われています。

1945年に松應寺が空襲で焼けた時も御廟所は無事に残りましたが、2010年以降は自然災害により老朽化が進んだため、2019年から修復工事が行われました。

 

この2つの墓所は、家康が天下を取った後は更に立派に整備され、父・広忠の供養に力を入れていた事が分かります。

また江戸時代を通じて、幕府がしっかり管理していた記録が残っており、初代将軍の父の墓として大切にされてきました。

広忠寺の特徴やエピソード:側室の親子が住職

そんな中、墓所の一つである広忠寺の成り立ちは特徴的です。

このお寺の初代住職は、家康の異母兄弟だと言われています。

広忠が家康の母である於大の方と結婚した時、側室だった於久の方は桑谷村という場所へ移り住み、そこで子供を産みました。

永禄5年(1562年)に松平家が今川家から独立すると、家康は於久の方とその息子に会いに行きました。

この息子は僧侶となっており、2人から広忠を弔うための寺を建てたいとの相談を受けた家康は、広忠の名前を付けた寺を桑谷村に建てることにしました。

そして於久の方の息子が、恵最と名前を改めて住職になったそうです。

 

このように、広忠寺は親族が協力して建てたお寺です。

生前の広忠は、父を10歳で亡くし、叔父には裏切られ、妻・於大の方とは離婚するなど、親族との縁に恵まれませんでした。

そんな広忠にとって、自分のために家族が力を合わせてくれた事は、何よりの供養になったのではないでしょうか。

そして広忠の墓は、すべて岡崎市の指定文化財になっています。

調査や保護活動も積極的に行われており、現在も大切にされている事が分かります。

家康の父だからというだけではなく、広忠自身が領主として親しまれていたからこそ、現在までお墓が残り続けているのではないでしょうか。

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まとめ

・広忠の死は隠蔽された?:織田家との関係

遺体は織田家から見つかりにくい方角へ運ばれています。

・信長が広忠の首をとった理由:史実には残されていない

広忠の死を必死に隠そうとした事や、目立たないように火葬された事などから、首をとられていた可能性はあります。

・信長と家康の同盟成立の年に広忠寺建立:信長が家康に首を返した

反発した松平家の家臣達を納得させるために、信長は広忠の首を返す事にしたのではないでしょうか。

・松平広忠の墓所・寺の特徴と違い:5か所の寺

  • 大樹寺
  • 大林寺
  • 法蔵寺

松平家代々とゆかりがあるお寺です。

  • 松應寺
  • 広忠寺

家康が建てたお寺です。

・大樹寺の特徴やエピソード

徳川家歴代将軍の位牌も納められており、松平家と非常に縁の深いお寺です。

・松應寺の特徴やエピソード:松の木が墓の代わり

墓石やお堂は無く、鳥居の奥に松の木が立っており、そこでお参りするようになっているのです。

・広忠寺の特徴やエピソード:側室の親子が住職

於久の方とその息子から広忠を弔うための寺を建てたいとの相談を受けた家康は、広忠の名前を付けた寺を桑谷村に建てることにしました。

 

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シゲゾウ
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