松平広忠は徳川家康の父にあたる人物ですが、実の息子である家康を人質に出してしまうような冷酷非道な性格というイメージがあります。
今回は、松平広忠の性格や生涯を見ていく中で、徳川家康との関係やエピソード・逸話について紹介します。
松平広忠の性格や徳川家康との関係
松平広忠の性格はどのようであったのか、徳川家康との関係について見ていきましょう。
松平広忠の性格とその理由・エピソード:冷静沈着
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、松平広忠に関する衝撃的なシーンがありました。
それは織田信長が父・信秀に、隣国三河(現在の愛知県東部地方)の武将である、広忠の首が入った桶を差し出す場面です。
三河へ進攻した信秀は広忠と何度も戦っており、信長は広忠を殺すことで父を喜ばせようとしたのです。
この松平広忠という人物は徳川家康の父ですが、実は家康以上の苦労人でした。
まず父親の急死により、わずか10歳で家を継ぎました。
家康の祖父で広忠の父・松平清康は、三河の有力者であった松平家を13歳で継ぎ、たった10年で三河を統一した、優れた武将でした。
広忠が10歳の頃、清康は尾張国(現在の愛知県西部地方)へ侵攻し、織田信秀の領地であった守山城を攻撃しました。
しかしその戦いの最中に家臣に裏切られ、斬り殺されてしまいます。
これは「守山崩れ」と呼ばれる大事件となり、三河地方は多くの有力者が争い合う分裂状態になりました。
この混乱状態の中で広忠が松平家を継ぎますが、大叔父である松平信定に自分の城である岡崎城を奪われてしまいました。
この時、広忠を救ったのは父の代からの家臣である阿部定吉です。
実は広忠の父・清康を斬り殺したのは、定吉の息子である阿部正豊でした。
しかも殺害動機は、定吉が裏切っているという噂が流れ、清康に定吉が処刑されたと勘違いした事による、逆恨みだったそうです。
広忠から見れば、定吉は父を殺した男の親であり、不信感を抱いてもおかしくない相手です。
しかし広忠は、定吉を追放する事も処刑する事もなく、家臣にし続けました。
定吉はこの決断にとても感謝し、広忠の逃亡生活や協力者との交渉に力を尽くしました。
このエピソードから、広忠は非常に冷静な判断ができる人物だった事が分かります。
幼い頃から、偉大な父の後継ぎとして、いつかは自分が松平家をまとめていく立場である事を自覚していたのかもしれません。
松平広忠と徳川家康の関係:親族に恵まれなかったせい
そして広忠は息子の家康を人質に出したことから、「子供を人質にして領地を守ろうとした、ひどい父親」という印象を持たれると思います。
しかし広忠は家臣には助けられた一方で、親族との縁には恵まれなかった人物でした。
- 大叔父に城を奪われる。
- 曾祖父は大叔父が広忠の命を狙っていても放置、実質見捨てられた形になる。
- 一緒に岡崎城を取り戻した叔父に、その後裏切られて敵対する。
- 妻の実家が敵である織田家につき、離婚することになる。
と、ここまででもかなり可哀想ですが、有名な「今川家に送られるはずだった息子の竹千代(のちの徳川家康)が、護送中に織田家に売られる」という事件を起こした戸田康光という人物は、広忠の再婚相手の父でした。
家のために息子を政治の駒のように扱っていたように感じられるのは、こういった経験から血縁関係をあまり信用していなかったためではないでしょうか。
「麒麟がくる」でも、幼い竹千代が父の死を冷静に受け止めているシーンがありましたが、実際、徳川家康が父を敬っていたような記録は残っておらず、逆に母親は大切に扱っていた事が分かっています。
広忠は息子に対して上手く愛情を注ぐことが出来なかった、悲しい人物でもあったように思います。
良くも悪くも感情的にならず、理論的に物事を考える人物像が見えてきます。
松平広忠の生涯やエピソード・逸話は?
松平広忠の生涯はどのようであったのか、エピソード・逸話について見ていきましょう。
幼くして逃亡生活を続ける
松平広忠は大永6年(1526年)、岡崎城主・松平清康の後継ぎとして生まれました。
1535年、父・清康が戦の途中で死亡し、大叔父・松平信定に岡崎城を奪われ、命も狙われるようになった広忠は、家臣・阿部定吉に助けられて伊勢(現在の三重県)へ逃亡。
この時、吉良持広という武将に保護され、彼の名前から一文字を貰って広忠と名乗るようになりました。
しかし持広が亡くなると、吉良家は織田家に従いはじめます。
広忠は三河へと逃げ戻り、今度は駿河(現在の静岡県中部地方)の今川義元を頼ります。
今川義元に利用された松平広忠
義元の協力を得た広忠は、岡崎復帰を願う家臣や祖父・清康の弟たちと共に信定を降伏させ、岡崎城へと戻ります。
広忠が三河から伊勢へ逃亡し、再び岡崎城へ戻るまでどれくらいの年月が掛かったのかは、資料によってバラバラであり正確には分かっていません。
しかし、岡崎城へ戻った時期は遅いものでも1540年となっており、10~15歳頃の少年期を様々な人物の協力を得て乗り切った事が分かります。
家を守るためには、まだ10代前半の自分では力不足である事を自覚していたのでしょう。
素直に他人の力を借りることが出来た事が、広忠の強みだったのではないかと思います。
また、力のある人物を見定め、しっかり協力を得られた事から、外交の才能もあったのではないでしょうか。
天文10年(1541年)、広忠は尾張知多郡の有力者である水野忠政の娘と結婚します。
水野家は尾張と三河の国境を拠点としており、情勢が不安定だった三河での領土争いと、尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の脅威から家を守るため、松平家と協力したいと考えたようです。
この時結婚した女性は於大という名前で、天文11年(1543年)に後継ぎとなる竹千代(後の徳川家康)を産みました。
三河の再統一に向けて地盤を固めていく広忠ですが、義父・忠政が亡くなると今度は水野家が織田家に従いはじめます。
広忠は岡崎城主へ復帰するために今川家の力を借りた事で、義元の影響を強く受けることになりました。
そのため義元が織田家と対立している以上、広忠も織田家とは戦い続けなければなりませんでした。
妻・於大の実家とも対立しなければならない立場となった広忠は、離婚して彼女を実家へと帰します。
ここから、広忠は織田信秀と何度も戦う事になっていきます。
天文14年(1545年)には織田軍に勝利しますが、天文16年(1547年)に信秀が大軍を率いて三河へ攻め込んできました。
岡崎城を攻め落とされた広忠は義元に救援を要請すると、その見返りとして息子・竹千代を人質として差し出すように言われ、この要求を受け入れました。
この時、今川家へ送られるはずだった竹千代が織田家に売られるという事件が起こります。
ちなみに竹千代が織田家の人質となった経緯については、長年「竹千代は今川家へ送られるはずが、織田家に奪われた」とされていましたが、近年の研究で、最初から織田家との停戦の条件として竹千代を人質に出したのではないかという説も出ています。
この説が正しければ、広忠は義元の言いなりになっていた訳ではなく、自分の領地を守るためにどうすべきかを自分で考えて行動していたのだと言えそうです。
天文17年(1548年)、小豆坂の戦いで再び信秀と対決し、今川家からも名将・太原雪斎と2万の援軍が送られ大勝します。
また今川軍は信秀の息子・信広を捕え、竹千代と交換。
竹千代が正式に今川家の人質となった事で、松平家と今川家との関係は更に強化されました。
しかし天文18年(1549年)3月6日、岡崎城内で亡くなります。
享年24歳という、早すぎる死でした。
前半生は父の死をきっかけに逃亡生活を強いられ、後半生は信秀との戦いで今川家に上手く使われた、とても苦しい人生だったと言えます。
しかし尾張の織田家と駿河の今川家という、大きな勢力に挟まれながらも松平家を守り抜いた広忠は、24歳で亡くならなければ、若い頃の苦労を糧にして、もっと歴史に名を残す人物になっていたかもしれません。
まとめ
・松平広忠の性格とその理由・エピソード:冷静沈着
広忠は非常に冷静な判断ができる人物だった事が分かります。
幼い頃から、偉大な父の後継ぎとして、いつかは自分が松平家をまとめていく立場である事を自覚していたのかもしれません。
・松平広忠と徳川家康の関係:親族に恵まれなかったせい
家のために息子を政治の駒のように扱っていたように感じられるのは、こういった経験から血縁関係をあまり信用していなかったためではないでしょうか。
・幼くして逃亡生活を続ける
1535年、父・清康が戦の途中で死亡し、大叔父・松平信定に岡崎城を奪われ、命も狙われるようになった広忠は、家臣・阿部定吉に助けられて伊勢(現在の三重県)へ逃亡。
・今川義元に利用された松平広忠
義元の協力を得た広忠は、岡崎復帰を願う家臣や祖父・清康の弟たちと共に信定を降伏させ、岡崎城へと戻ります。
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