齋藤高政(齋藤義龍) PR

齋藤高政(義龍)は強い・有能なのか?いい話やエピソードについても

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齋藤高政(義龍)は父である斎藤道三を倒した人物ですが、織田信長の隆盛に比べればあまり目立つことがないままこの世を去りました。

今回は、齋藤高政(義龍)は強く有能な人物だったのか、その政治や武将としての能力、

齋藤高政(義龍)にまつわるいい話やエピソードについても紹介します。

齋藤高政(義龍)は強い・有能だったか能力は?

齋藤高政(義龍)は武将として強く政治家として有能だったのか、その能力を見ていきましょう。

外交能力に優れた人物

織田信長が天下統一の足掛かりにした美濃国(現在の岐阜県南部地方)を治めていた斎藤高政(義龍)は、その実力が過小評価されている武将の1人です。

高政は斎藤家の当主となり美濃を完全に支配した後、わずか5年ほどで亡くなったため、その実績が取り上げられることが少ない人物です。

しかし、高政が生きている間に行った様々な政策や策略によって、信長は高政の死後、美濃を奪うまでに5年も時間をかけることになりました。

 

まず、高政は外交の能力に優れていました。

織田家への妨害工作

自分と敵対している隣国・尾張(現在の愛知県西部地方)の信長への対策として、尾張国内の反信長派の勢力や、織田家内部で信長を良く思っていない人物に働きかけました。

信長の兄でありながら、後継ぎ候補から外されていた織田信広に協力して謀反を起こさせました。

敵対していた六角家との同盟成立

その一方で、近江(現在の滋賀県)へと領土を拡大するため、永禄3年(1560年)6月頃に南近江の大名・六角義賢と同盟を結びました。

この六角家ですが、義賢の姉妹が道三に美濃から追い出された土岐頼芸と結婚していたため、斎藤家とは敵対関係にありました。

その関係は道三の死後、高政の時代になっても続いており、六角家の中では斎藤家との同盟に反対する声も多くありました。

しかしそんな状況から、六角家との同盟を成立させた事から、高政の外交能力の高さが分かります。

 

そして美濃から攻め込みやすい、北近江(滋賀県長浜市・米原市・彦根市)の浅井家と戦いはじめます。

しかし、わずか一年後の永禄4年(1561年)5月に高政が急死し、残念ながら領土拡大は叶いませんでした。

幕府との関係構築

また、幕府の役職や朝廷からの位を貰い、自分が力を持っている事を他の大名にもアピールしました。

さらに将軍・足利義輝から「義」の字を貰い、名前を高政から義龍へ改名しました。

 

戦国時代、将軍という位はすでに形だけのものになっていましたが、それでも全国の武士のトップという立場でした。

そのため幕府に従う大名も多く、室町幕府の家臣という扱いになった高政は、幕府に忠誠心を持つ大名からは国へ攻め込まれる心配がなくなりました。

道三とは違う新しい政治体制:権利や意見を重視

更に内政面でも、父・道三の時代の政治体制から、新しい制度へと変更していきました。

まず、作物の生産高を金額に換算して、およそどれくらいの農地があるのかを把握する「貫高制」という制度を導入しました。

これにより、領地内の収穫量を予測しやすくなり、戦の時にどのくらいの兵糧を集められるのかという目安にもなりました。

 

同時に、誰がどのくらいの土地を持っているのかが分かるようになったことで、安堵状という証書を発行して土地の持ち主の所有権を認めました。

そして、道三は政治も戦の仕方も独断で決めていましたが、重臣との話し合いで決定する合議制を取り入れました。

 

このように、高政は家臣たちの意見と権利を大切にして、斎藤家内部の結束を高めていきました。

 

高政の政策を見ていくと、道三を反面教師としたものが多い事が分かります。

道三は美濃国内での権力争いに勝つため、内政よりも、他国との戦や策略を重視していました。

しかしそのせいで家臣たちの心が離れ、国内での争いへと発展した事から、高政は国の力を付ける事が大切だと学び、領民を大切にする政策を実行していきました。

齋藤高政(義龍)のいい話やエピソード・逸話

斎藤高政(義龍)に関するエピソードや逸話、性格にまつわるいい話はどのようなものが伝わっているのでしょうか。

斎藤道三の息子では無かった

斎藤高政(義龍)に関するエピソードとして有名なのは「実は斎藤道三の息子では無かった」という説がある事です。

高政の母・深芳野は、元々は土岐頼芸という人物の妻でした。

頼芸は高政の父、斎藤道三(利政)の主君だった人物ですが、道三との権力争いの末、美濃から追い出されています。

高政は深芳野が道三と結婚した翌年に生まれているため、頼芸の子だった可能性があるのです。

 

ただし、高政の実の父が土岐頼芸であるという説は、『美濃国諸家系譜』という、江戸時代にまとめられた記録に書かれているため、深芳野と道三が結婚した時期も含めて、後に創作された話ではないかとも言われています。

 

その一方で、高政が道三の実の息子ではないという噂が、家臣の間で本当に流れていた可能性があります。

高政と道三が親子で対決した長良川の戦いでは、ほとんどの家臣が高政に味方しました。

斎藤家の家臣の中には、元々は土岐家に仕えていた人物が多く、高政が頼芸の息子であれば、元の主君である土岐家の血を引く高政の味方をしようと考えるのは自然な事です。

高政は、自分が頼芸の息子であるという噂を、家臣をまとめるために利用したとも考えられます。

信長暗殺計画:日本初の銃暗殺

大河ドラマ「麒麟がくる」では、高政が信長の暗殺を計画するシーンがありましたが、これは実際に起こった出来事です。

永禄2年(1559年)、わずかな家臣を連れて京都を訪れました。

高政は火縄銃を装備した兵を潜ませ、信長を暗殺しようとしたのです。

この暗殺計画は失敗に終わりましたが、記録に残っている限り、日本で初めて銃で暗殺を行った事件でした。

戦国時代、火縄銃は弾を込めてから発射まで時間が掛かるため、戦で使用するには不向きだとされてきました。

しかし、弓よりも目立たず、狭い場所から相手を狙うことが出来るというメリットがあります。

高政は火縄銃の性質を良く分かっていたからこそ、この計画を思いついたのではないでしょうか。

後に信長は、大量の火縄銃を用意し、弾込めの時間の長さを数で克服して、戦のあり方を大きく変えました。

しかし、信長よりも先に火縄銃の活用法を思いついた高政は、先見の明がある人物だったと言えるのではないでしょうか。

 

道三は息子である高政を「ほれ者(おろか者や無能という意味です)」と評価しており、それよりも娘婿である信長の実力を認めていました。

そのため高政が信長と敵対したり、殺そうとした理由は、個人的な恨みのように見えるかもしれません。

しかし、高政が信長の暗殺を計画した時期というのは、信長が織田家内の問題を解決し、尾張を完全に支配した直後の事です。

つまりこの時点で信長が死んでしまうと、尾張国内は混乱し、また新しい支配者の座を巡った争いが確実に起こるのです。

また、高政が信長と敵対し続けていたのは、周りが敵だらけの状態から尾張を統一した信長の実力を認めており、早い段階で倒してしまいたい相手だと認識していたからではないでしょうか。

 

高政は世の中の状況を冷静に分析し、大胆な行動をとる事も出来る、優秀な大名だったからこそ、信長を暗殺しようとしたのだと思います。

まとめ

・齋藤高政(義龍)は強い・有能だったか能力は?

  • 外交能力に優れた人物
  • 織田家への妨害工作
  • 敵対していた六角家との同盟成立
  • 幕府との関係構築
  • 道三とは違う新しい政治体制:権利や意見を重視

・齋藤高政(義龍)のいい話やエピソード・逸話

  • 斎藤道三の息子では無かった
  • 信長暗殺計画:日本初の銃暗殺

 

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シゲゾウ
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