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山月記・臆病な自尊心と尊大な羞恥心の意味は?具体例や言い換え・心理についても

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高校の国語・現代文の授業で扱われることの多い中島敦の「山月記」は非常に難解で意味不明に感じてしまう作品です。

今回は「山月記」の山場の一つである「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の意味について。

またその具体例や言い換え、心理について紹介します。

「山月記」臆病な自尊心と尊大な羞恥心の意味や矛盾点は?

中島敦の「山月記」は国語の現代文で必ずと言って良いほど扱われる作品です。

その山場の一つである「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という言葉の意味についてみていきましょう。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心とは何か?

中島敦の「山月記」に登場する「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」という表現は、李徴が袁傪に詩を託したあとに自分自身の過去を振り返った李徴のセリフとして登場します。

何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようにれば、思い当ることが全然ないでもない。

人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。

人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。

実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党きょうとうの鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。

しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

かといって、又、己は俗物の間に伍することもいさぎよしとしなかった。

共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。

おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々おのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

引用:中島敦「山月記」ー青空文庫

臆病な自尊心と尊大な羞恥心は李徴の性格的な特徴を表していることは明らかです。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心の矛盾の理由

この2つの言葉が理解しにくいと感じる理由の一つは組み合わせです。

外見 中身
臆病な 自尊心
尊大な 羞恥心

言葉の組み合わせとして、矛盾したところがあるために違和感を感じます。

自尊心は「誇りやプライド」のことであり、誇りを持っていると言えば「胸を張っている」ような自信のある態度を表します。

しかし自尊心がセットになっているのは「臆病」です。

 

また、羞恥心についても同様のことが言えます。

羞恥心は恥ずかしさ、恥ずかしい出来事、隠したいことです。

そんな羞恥心がセットになっているのは「尊大」です。

尊大と言えば偉そうでいばっているような雰囲気を指します。

 

本来の組み合わせとしては下の通りです。

臆病な 羞恥心
尊大な 自尊心

こうすることで言葉としてまとまりを持つことができます。

臆病な羞恥心はとにかく自信がないさまを表しています。

尊大な自尊心は自信家で自分が大好きでプライドの高い、決して欠点を認めない人を表します。

 

「山月記」で「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」といった違和感のある言葉の組み合わせになっている理由は、虎になってしまった李徴の屈折した心や性格を表した表現だと言えます。

臆病な自尊心の意味は?

それでは臆病な自尊心と尊大な羞恥心の意味についてみていきましょう。

2つを分けて紹介しますが、表裏一体の構造になっているところがあるの言葉です。

 

「臆病な自尊心」は自尊心(誇り・プライド)が強いために、失敗して傷ついてしまうことをひどく恐れて臆病になってしまう性格を表します。

尊大な羞恥心の意味は?

「尊大な羞恥心」は「臆病な自尊心」があるがゆえに、失敗を恐れており恥ずかしい結果を招くかもしれないことから距離をおこうとする様子を表しています。

自尊心を守るために他者との関係・コミュニケーションを拒絶している態度を指します。

李徴はこの態度が周囲からは

人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。

人々は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。

と話しています。

 

流れとしては、

「失敗したりプライドを傷つけられるのが怖い(臆病な自尊心)」

→「比べられるステージに立たなければ良い」

→「偉そうに見下す態度を取ろう(尊大な羞恥心)」といった感じです。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心と虎の関係は?

李徴は自分自身が虎になった理由を考察する上で、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」が一つの要因だと語っています。

その点に関しては詳しくはこちらで解説しています↓

「山月記」臆病な自尊心と尊大な羞恥心の具体例・行動や言い換え・心理は?

中島敦の「山月記」に登場する李徴の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の具体例として挙げられているものはなんでしょうか?

また臆病な自尊心や尊大な羞恥心の言い換えについて。

臆病な自尊心や尊大な羞恥心を持つ心理についてみていきましょう。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心の具体例・行動は?

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の具体例としては2種類が考えられます。

李徴が具体的に話している内容を挙げるものと、説明として分かりやすい臆病な自尊心や尊大な羞恥心の具体例を挙げるという場合です。

それぞれの場合についてみていきましょう。

李徴が具体的に話している「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の内容は?

李徴が「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が発揮された具体的な話として挙げているのは詩についてです。

おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

かつて鬼才と言われた自分ではあったものの、詩人としてはいっこうに世間から評価をされなかったことなどから「実は才能がないのかもしれない」という気持ちが存在しており、誰か先生に詩を教えてもらいにいってダメ出しをされたとすれば「あぁ、やっぱり自分には才能はなかった」と知らされることになり、そんなことには耐えられないという思いがありました。

 

より具体的にはこれより少し前の文章として、

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

という部分が挙げられます。

凡人がするような努力の方法をしようともしなかった。

なぜなら「比べられるのが怖いから」です。

袁傪が李徴の詩を読み、その才能を認めているものの不足しているものがあると感じました。

それはつまり、李徴は詩人の原石としての才能はあるものの、ダイヤモンドとなるには色々な人たちと(傷つくことを恐れずに)一緒に比べられたりして磨き上げられなければならなかったのだと言えます。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の具体例をわかりやすく説明すると?

人と比べられることの怖さや恥ずかしさはおそらく誰しも経験があったり、想像することができるでしょう。

なのでわかりやすい具体例を踏まえた説明としては実体験に即した話をしてあげれば良いです。

勉強についてで言えば、

中学時代は成績がトップだったものの今まで通りの勉強量では徐々に高校の勉強についていけなくなったことを感じつつも、周囲の目もあり「出来る自分」を保ちたい。(臆病な自尊心)

できない自分を受け入れて努力をしないといけないと分かりつつも、他人に弱さを晒すのが怖いので、「こんな勉強の何が意味があるのか、自分はこんな程度の人間ではない」と周囲を見下してみている様子。(尊大な自尊心)

といったところでしょうか。

スポーツや友人関係などでも適用することができる話です。

臆病な自尊心と尊大な羞恥心の言い換えは?

中島敦の「山月記」の中には「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」の具体的な行動としての言い換えをしている表現が出てきます。

臆病な自尊心尊大な羞恥心
行動 師に就かない
詩友と交わり切磋琢磨しない
俗物の間に伍することもいさぎよしとしない
言い換え あえて刻苦して磨こうともせず
碌々として瓦に伍することもできなかった

臆病な自尊心と尊大な羞恥心の心理は?

「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」のあらわす心理については、意味のところで述べたものと重複する部分があります。

「臆病な自尊心」の表しているのは、自尊心(誇りやプライド)の高さのために、それらを傷つけられることを極端に嫌い恐れている心理です。

「尊大な羞恥心」が表しているものは、羞恥心(恥ずかしさ)も感じやすく引きずりやすいところがあるため、失敗したり恥ずかしさを感じる可能性があることから距離を置こうとします。

その際に偉そうな周囲を見下した態度を取ることで距離を置こうとする心理です。

 

これらの背景としては

おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

という箇所が挙げられます。

対応関係としては次のようになります。

臆病な自尊心 尊大な羞恥心
おのれたまあらざることをおそれるがゆえ 己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえ
えて刻苦して磨こうともせず 碌々として瓦に伍することも出来なかった

まとめ

・臆病な自尊心と尊大な羞恥心とは何か?

中島敦の「山月記」に登場する「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」という表現は、李徴が袁傪に詩を託したあとに自分自身の過去を振り返った李徴のセリフとして登場します。

・臆病な自尊心の意味は?

「臆病な自尊心」は自尊心(誇り・プライド)が強いために、失敗して傷ついてしまうことをひどく恐れて臆病になってしまう性格を表します。

・尊大な羞恥心の意味は?

「尊大な羞恥心」は「臆病な自尊心」があるがゆえに、失敗を恐れており恥ずかしい結果を招くかもしれないことから距離をおこうとする様子を表しています。

・臆病な自尊心と尊大な羞恥心と虎の関係は?

李徴は自分自身が虎になった理由を考察する上で、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」が一つの要因だと語っています。

・李徴が具体的に話している「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の内容は?

李徴が「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が発揮された具体的な話として挙げているのは詩についてです。

・「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の具体例をわかりやすく説明すると?

人と比べられることの怖さや恥ずかしさはおそらく誰しも経験があったり、想像することができるでしょう。

・臆病な自尊心と尊大な羞恥心の言い換えは?

中島敦の「山月記」の中には「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」の具体的な行動としての言い換えをしている表現が出てきます。

・臆病な自尊心と尊大な羞恥心の心理は?

「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」のあらわす心理については、意味のところで述べたものと重複する部分があります。

 

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シゲゾウ
アラサーのエンタメ好き兄ちゃんデス。 教育関連の仕事に就いています。 エンターテイメントを肌で体感してあなたに新鮮な感動と興奮する情報をお届けします!!! やってみなきゃ分からない!をモットーに何にでも前のめりで挑戦していきます!!