斎藤利政は斎藤道三の名で知られ、「美濃のマムシ」というあだ名も有名です。
今回は、斎藤利政の特徴とともにその生涯・半生を追っていきます。
また、利政の最後・最期はどのようなもので死因はなんだったのか?
大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれたような毒殺をしたorされた事実はあるのか見ていきましょう。
斎藤利政の特徴や生涯・半生
戦国時代に美濃国(現在の岐阜県南部地方)を乗っ取り、下克上により大名になった斎藤利政(斎藤道三)ですが、その晩年は息子・義龍との対立が続きました。
斎藤利政の特徴:美濃のマムシの由来
斎藤利政(斎藤道三)は肖像画も残る人物で、ハゲ頭に口髭、鋭く残忍さも窺えるような目をした人物として描かれています。
身長について明示されていませんが、息子である義龍が2m近い大男だったと言われていることを踏まえると、利政も同じく大柄な人物だったのではないかと考えられます。
斎藤利政(斎藤道三)と言えば「美濃のマムシ」というあだ名が有名です。
このあだ名の由来は利政の容姿的な特徴と下剋上の生き様を踏まえたものと考えられます。
マムシに対する当時のイメージは
- 毒蛇
- 脱皮
- 鋭い目
- 陰湿・残忍・狡猾そう
このようなところでしょう。
実際にはマムシは温厚な性格でこちらから手出しをしない限りは危険ではなく、持っている毒についても必ず死んでしまうほど強力ではないことが分かっていますが、そうした事実は関係なく漠然としたイメージで付けられたのでしょう。
利政かそれとも利政の父の所業かは未だ判明していませんが、商人から武士を志し、仕えた家で出世を果たして主君を失脚させ地位を奪い、また新たなつながりを利用して・・・。
こうした下剋上の生き様が蛇の脱皮を思わせます。
容姿に関しては大槍を振り回したり、息子・義龍の身長から考えるとマムシの持つ小さめな体格とは関係ないと言えます。
あくまでも肖像画には事実ではなく、どのように見せたいかというイメージが描かれる部分もあるので、実際には鋭く残忍そうな目はしていなかったかもしれません。
斎藤利政の生涯・半生
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元々の美濃国の主は土岐氏という一族で、利政はその中の土岐頼芸という人物の家臣でした。
土岐氏の中で後継ぎ争いが起こり、それに勝った頼芸が美濃の国主になると、利政はナンバー2である守護代という役職に就きます。
名目上は頼芸が国のトップでしたが、実際の政治を行うのは守護代である利政であったためその後、2人の仲は徐々に悪くなっていき戦に発展しました。
天文11年(1542年)、利政は頼芸が住んでいた大桑城(現在の岐阜県山県市)を攻撃し、頼芸とその子供を美濃から追い出す事に成功します。
こうして、利政が美濃を支配する大名となりました。
美濃から追い出された頼芸は、尾張国(現在の愛知県東部地方)へ逃げ込みました。
そして、尾張で強い力を持っていた織田信長の父・信秀を頼ります。
更に越前(現在の福井県)を治める朝倉家からも協力を得て、頼芸は美濃を取り戻そうと動き出します。
天文16年(1547年)には信秀が大軍を率いて美濃に攻め込んできました。
しかし利政はこれを撃退し、織田軍を壊滅寸前に追い込みます。
「加納口の戦い」と呼ばれる、この戦いに利政が勝利した事で、織田家は斎藤家と戦うのは得策ではないと考え、和睦を申し込んできました。
利政としても、美濃国内にいる頼芸派の武将との戦いを優先したい状況だったため、織田家と和解することを選びます。
その結果、同盟の証として、利政の娘・濃姫(帰蝶)と信長が結婚しました。
尾張の織田家と同盟を結んだことで、安心して美濃国内の敵と戦えるようになった利政は、反対派の武将を倒していき、天文21年(1552年)、ついに美濃を完全に支配します。
義龍への低い評価と家臣の不満
しかしこの頃、家臣の中には利政の強引なやり方に不満を持つ者が増えていました。
そんな家臣たちが頼ったのが、利政の息子で斎藤家の後継ぎである義龍(高政)です。
2人は、どちらかと言えば仲の悪い親子でした。
利政は義龍の事を「ほれ者(おろか者という意味)」と評価しており、出来の悪い息子だと思っていたのです。
それよりも三男の孫四郎と四男の喜平次を「利口者」だと可愛がっていました。
隠居後も口を出し義龍を苦しめた
天文23年(1554年)、利政は隠居して「道三」と名乗り、斎藤家を義龍に継がせました。
しかし突然の隠居であるため、家臣たちにより無理矢理引退させられたのではないかとも言われています。
更に、義龍が家を継いだ後も利政は政治に関わっており、斎藤家は2人の当主がいるような状態になっていました。
実は義龍の母は正室ではなく、戦国時代に正室の子以外が家を継ぐのはとても珍しい事でした。
一方、利政が可愛がっていた孫四郎と喜平次は正室の子であったため、どちらかが義龍に変わって斎藤家の当主になっても不思議ではありませんでした。
当主の座を弟に奪われるかもしれないと考えた義龍は、弘治元年(1555年)、利政が稲葉山城(現在の岐阜県岐阜市)のふもとにある屋敷へ出かけている隙に、孫四郎と喜平次を殺害します。
それを知った利政は、すぐに兵を集めて大桑城(現在の岐阜県山県市)へ逃れ、その後、合戦へと発展しました。
元々土岐家に仕えていた家臣たちは、ほとんどが義龍に味方したため、利政に協力する家臣は非常に少なかったようです。
明智光秀の家系である明智家、竹中半兵衛の父などわずかな味方はいましたが、
- 17500の義龍軍
VS - 2700の利政軍
という戦力差ゆえに、弘治2年(1556年)4月、長良川の戦いに負けた利政は、63歳で亡くなりました。
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斎藤利政の最後・最期の死因や毒殺
斎藤利政の最後・最期はどのようなもので死因はなんだったのか?
また、利政の行った毒殺や利政とつながりのある毒殺事件について見ていきましょう。
斎藤利政の死因:すねを斬られ首を落とされ鼻を削ぎ落とされた
斎藤利政の死因は戦死ですが、その死に様は壮絶だったようです。
利政が息子・義龍(高政)の軍と戦い、討ち死にした長良川の戦いは、最初は利政側が優勢でした。
しかしおよそ6倍の兵力差があった事もあり、徐々に義龍軍が利政のいる本陣へ押し寄せてきました。
その結果、本陣は乱戦状態になり、長井忠左衛門という武将が、利政を生け捕りにしようと組み付きます。
そこへ小牧源太という武将が襲いかかり、利政はすねを斬られ、そのまま首を斬り落とされました。
複数の者が同時に襲いかかったため、一番槍(誰が最初に敵の大将と戦ったのか、という手柄)の争いが起こり、利政は証拠として忠左衛門により鼻をそぎ落とされたと言われています。
利政の墓と遺体:道三塚
その後、利政の遺体は、岐阜県岐阜市の崇福寺の近くに埋葬され、道三塚というお墓が建てられました。
このお墓は長良川の洪水で何度も流されたため、天保8年(1837年)に場所を移し、現在も残る石碑が建てられました。
この道三塚がある場所は「岐阜県岐阜市道三町」という名前になり、町名と共に道三塚は現在も守られ続けています。
利政を頼芸が毒殺しようとした?:史実にはないフィクション
大河ドラマ「麒麟がくる」では、土岐頼芸が利政を殺そうと、爪に毒を塗った鷹を贈るシーンがありました。
利政が娘婿の土岐頼純を毒殺した事で、頼芸は利政を憎むようになり暗殺を計画したという流れでした。
実際に利政が頼芸に毒殺されかけたという記録はなく、ドラマによる脚色ですが、利政が土岐家の人物を毒殺した事は事実のようです。
利政が頼芸の弟を毒殺
史実では利政は頼芸の弟・頼満を宴会に招き、毒殺しています。
そして「麒麟がくる」では、利政はお茶に毒を入れて頼純を殺していましたが、実際、利政は茶の湯が好きだった事も分かっています。
京都で有名な茶人であった不住庵梅雪という人物から、茶の湯の作法を学んでいたそうです。
毒殺により利政と土岐家が対立していく様子は、史実を上手く取り入れた演出だったと言えます。
ちなみに梅雪は、この後、千利休が織田信長に仕えるまで、信長の茶頭(茶会の責任者)として活躍しました。
信長は利政との縁を知って、梅雪を茶頭に迎えたそうです。
最後は政治上の敵である土岐家ではなく、自分の息子に殺された利政ですが、皮肉にも利政を最も評価し尊敬していたのは、娘婿の信長でした。
利政は「いつか自分の子供たちは、信長の家来になるだろう」と、信長の才能を高く評価していました。
その言葉通り、信長は美濃を手に入れた後、斎藤家の治めていた土地を「岐阜」と改名し、一気に天下へと近づく事になります。
まとめ
・斎藤利政の特徴:美濃のマムシの由来
斎藤利政(斎藤道三)は肖像画も残る人物で、ハゲ頭に口髭、鋭く残忍さも窺えるような目をした人物として描かれています。
・斎藤利政の生涯・半生
元々の美濃国の主は土岐氏という一族で、利政はその中の土岐頼芸という人物の家臣でした。
天文11年(1542年)、利政は頼芸が住んでいた大桑城(現在の岐阜県山県市)を攻撃し、頼芸とその子供を美濃から追い出す事に成功します。
・斎藤利政の死因:すねを斬られ首を落とされ鼻を削ぎ落とされた
斎藤利政の死因は戦死ですが、その死に様は壮絶だったようです。
・利政を頼芸が毒殺しようとした?:史実にはないフィクション
実際に利政が頼芸に毒殺されかけたという記録はなく、ドラマによる脚色ですが、利政が土岐家の人物を毒殺した事は事実のようです。
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