織田信長に仕えていた平手政秀の最期は有名なシーンとしてさまざまな作品で描かれています。
今回は、平手政秀の最期や死因について、
病気や自殺の理由、平手家や子孫のその後について紹介します。
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平手政秀の最期や死因・自殺の理由
平手政秀の最期はどのようだったのか、死因は何なのか?
また、自殺の理由について紹介します。
平手政秀の最期について詳しく
今回は平手政秀の最期について迫ってみます。
平手政秀は、織田信長の教育係として幼い頃から従っていた人物です。
そんな彼の最期は、時代劇や信長を扱った作品では有名なシーンの1つです。
何故なら政秀は自殺しているからです。
何故自殺をしたのかについては様々な説があるのですが、その前に政秀の後半生について軽く振り返っておきましょう。
晩年の政秀は大きな問題を抱えていました。
それは
- 自分が世話をしている信長の奇行
- 織田家自体の危機
の2つです。
自分が世話をしている信長の奇行
まずは信長の奇行ですが、この頃はうつけ(大バカ者)と呼ばれ、派手な格好で領地をうろついたり、町の若者たちと戯れたり、柿や餅を食べながら歩いたりと、領主の息子とは思えない行儀の悪さで有名でした。
その様子から、織田家の後継ぎとして相応しくないのではないかと家臣の中で問題になっていました。
織田家自体の危機
次に織田家自体の危機です。
尾張の国(現在の愛知県西部地方)の僅かな領地から、一気に勢力を拡大した織田家を良く思っていない他の領主たちや、隣国である美濃の国(現在の岐阜県南部地方)、三河の国(現在の愛知県東部地方)との争いは、年々激しくなっていました。
政秀は優れた外交官であったため、和解や同盟などの大切な交渉をいくつもまとめ、その危機を救っていました。
そんな中、大きな事件が起こります。
それが信長の父であり、織田家の当主であった織田信秀の急死です。
信秀は非常に優秀な武将であったため、この機会に織田家を潰そうという動きが活発になっていきます。
政秀は、織田家中の団結力が弱く、周りは敵だらけというこの危機を乗り越える方法を、ずっと考えていたのでしょう。
天文22年(1553年)、政秀は自ら命を絶ちます。
信秀が亡くなってからおよそ1年後のことでした。
平手政秀の死因・自殺の理由:信長の奇行を止めるため
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政秀の死因は自殺、それも切腹だったと伝わっています。
亡くなった日は天文22年1月13日(現在の暦では1553年2月25日です)と、正確な記録が残っているため、死因自体は間違いないと思います。
ただし何故切腹したのかについては、様々な説があります。
特に有名な説は、信長の奇行を止めるためというものです。
信長は、父の葬式で位牌に抹香(粉状のお香)を投げつけるという、とんでもない行動を起しています。
それは信長にとっては意味のある行動だったのかもしれませんが、家臣からは信長に織田家を継がせるべきではないという意見が出ました。
そこで重臣である政秀が切腹する事で、信長の代わりに責任を取ったのです。
当時の織田家ではNo.2の立場であった政秀が切腹までしたのですから、その影響は大きく家臣たちの反発も収まりました。
一方で信長には、織田家が一致団結するために問題行動を慎んで下さい、というメッセージを込めました。
ずっと自分を見守ってくれていた政秀を亡くした信長は深く悲しみ、必ず天下を統一し、民や百姓を慈しみ育てる国にするのだと決意したそうです。
しかし、信長の問題行動についていけなくなったため自殺した、という説もあります。
きっかけは、政秀の息子が持っていた名馬を、信長が欲しがった事でした。
政秀の息子はこれを断ったため、信長と仲が悪くなってしまったのです。
こういった行いを見て、政秀は幼少期から教育係を務めてきた信長が、領主に相応しい人物には育たなかったと思い、これ以上は信長に従えないと嘆き悲しんで切腹したそうです。
信長の今後のために切腹したという説と、信長の今後に絶望して切腹したという説。
一見正反対の説ですが、どちらも政秀の信長に対する深い愛情を感じます。
命をかけてもいいと思っていた人物だからこそ、最後に切腹という行動に行きついたように思います。
その気持ちは信長に伝わったはずです。
政秀が亡くなった天文22年(1553年)、信長は斎藤道三との会見を成功させて同盟関係を強いものにしています。
更に翌年の天文23年(1554年)には、勢いのあった隣国の今川家との戦いに勝利し、父の代から戦い続けていた清州織田氏を滅ぼしています。
政秀のためにも、必ず天下を取ってやるという決意がより強いものになったのだと思います。
政秀の死後、信長は政秀寺というお寺を建てます。
ご本尊は、信秀が弔われている万松寺と同じ十一面観音です。
信長が政秀を弔うお寺のご本尊を、父のお寺と一緒にしたのは、政秀がそれだけ信秀の素晴らしい家臣だったと認めており、そして父と同じくらい慕っていたからでは無いでしょうか。
また、この十一面観音のご利益の中には「極楽浄土に生まれ変わる」というものがあります。
政秀には極楽浄土で安らかに暮らして欲しい、そんな思いが伝わってきます。
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平手政秀の病気や子孫のその後は?
平手政秀の病気・病名は何か?
平手家の子孫のその後について紹介します。
平手政秀の病気・病名は?
最近の作品では、政秀が病に倒れるシーンが盛り込まれることがあります。
これは信長と政秀が深い絆で結ばれていた事や、政秀が織田家の中で重要な人物だった事を伝えるためのシーンです。
政秀は62歳で亡くなりました。
戦国時代は戦の影響もあり、一般的な平均寿命は40歳前後だったようです。
戦国大名など武将に限定して平均寿命を割り出すと60歳前後だそうで、武士は比較的長生きだったようですね。
とはいえ、政秀の62歳という年齢は高齢と言っていい部類に入ると思います。
であれば持病の1つや2つあってもおかしくなさそうですが、それを裏付けるような記録は残っていません。
しかし、最後に切腹という行動を取った理由の一つとして、もう自分の命が長くない事が分かっていた可能性はあります。
残り少ない命で何が出来るかと考えた時、最も衝撃的で織田家を大きく変えられる可能性がある方法として、切腹を選んだのではないでしょうか?
高齢であるから、いつ死んでもいいと思っていたとも考えられますが、もしかしたら、本当に何らかの病にかかっていたのかもしれません。
平手政秀の死後、平手家はどうなったか
政秀には3人の息子がいました。
そして息子たちは、政秀の死後も信長に仕え続けました。
信長とその息子による長島の一向一揆平定戦に参加したり、信長の重要な同盟相手である徳川家康が、武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いへ、援軍として送られています。
どちらも非常に重要な戦いですので、そこに参加しているのであれば無能では無かったはずです。
しかし、特別出世した訳ではありません。
息子たちは地道に成果をあげるタイプだったのかもしれませんし、指揮官には不向きだった可能性があります。
出世しなかった理由としては、早くに亡くなってしまったからだとも言われています。
政秀の息子と孫は全員戦で討ち死にしており、平手家は途絶えてしまいました。
特に三方ヶ原の戦いで政秀の孫が亡くなった事について、信長は一緒に援軍に向かった武将に怒りの手紙を出しています。
政秀の息子といえども実績を積むまでは出世させないという、信長の実力主義な面が伺えると共に、やはり政秀の親族を大切にしたいという複雑な思いがあったように感じます。
そして政秀の娘は、信長の弟である織田長益と結婚しています。
この織田長益という人物ですが、武士としてではなく、茶人として有名になりました。
茶人としての名前は織田有楽斎といい、東京都千代田区の有楽町という名前の由来にもなっています。
茶の湯の腕前が優れていた政秀の血が、茶人の家系に受け継がれていったというのは、何とも不思議な巡りあわせです。
平手家は武家としては残りませんでした。
しかし政秀が武力ではなく、交渉術や教養の深さで戦国の世を生き抜いた事、そして深い愛情で織田信長を導いた事。
その功績は彼を慕った人たちに記録され、今も残されています。
まとめ
・平手政秀の最期について詳しく
そんな彼の最期は、時代劇や信長を扱った作品では有名なシーンの1つです。
何故なら政秀は自殺しているからです。
・平手政秀の死因・自殺の理由:信長の奇行を止めるため
特に有名な説は、信長の奇行を止めるためというものです。
・平手政秀の病気・病名は?
最近の作品では、政秀が病に倒れるシーンが盛り込まれることがあります。
これは信長と政秀が深い絆で結ばれていた事や、政秀が織田家の中で重要な人物だった事を伝えるためのシーンです。
・平手政秀の死後、平手家はどうなったか
政秀には3人の息子がいました。
そして息子たちは、政秀の死後も信長に仕え続けました。
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