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明智光秀の妻・煕子の病気やあばた!美人の逸話や死因についても

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明智光秀の妻・煕子は絶世の美女であり、当時としては珍しく夫婦仲は大変良好だったと語り継がれています。

今回は、明智光秀の妻・煕子の病気やあばたについて紹介します。

また、美人だったという逸話や死因についても解説していきます。

明智光秀の妻・煕子の病気やあばたの理由

明智光秀の妻・煕子の病気やあばたの理由について見ていきましょう。

明智光秀と妻・煕子の夫婦関係

大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公・明智光秀は愛妻家だったようです。

戦国武将は何人かの妻を持つことが普通でしたが、光秀は1人の女性だけを妻として大切にしたと言われています。

今回はそんな光秀の妻・煕子について紹介しようと思います。

 

煕子は美濃の国(現在の岐阜県南部地方)の有力者である、妻木家の娘だったそうです。

生年月日などははっきりと分かっていませんが、1530年or1534年生まれと言われています。

光秀も生年月日についての記録が曖昧なため、「麒麟が来る」では1528年に生まれたという説を採用しています。

そのため、2人の年齢差は2~6歳です。

「麒麟が来る」で光秀と煕子が幼い頃、よく一緒に遊んでいたという設定になっているのは、この年齢差から考えられたものでしょう。

2人の年齢がそれほど離れていなかった事も、夫婦仲が良かった理由の一つなのかもしれません。

そして2人の結婚に関してはとても有名なエピソードが残っています。

明智光秀の妻・煕子の病気:疱瘡(天然痘)

光秀と煕子の婚約が決まった後、煕子は疱瘡(天然痘)という病気にかかります。

戦国時代には一般的な病気で、高熱と共に体中にブツブツとした水ぶくれが出来てしまいます。

死亡する確率は20%~50%と高く、仮に命が助かっても後遺症が残る事が多かったそうです。

有名なところでは、伊達政宗がこの病気が原因で片目を失っています。

 

煕子も顔の表面に、あばたと呼ばれるデコボコとした小さなくぼみの痕が残ってしまいました。

そこで父親は、煕子の妹を代わりに光秀に嫁がせようとしますが、光秀は煕子を妻に迎えました。

「自分が結婚したいと思ったのは煕子なのです」と、はっきり伝えたそうです。

光秀が自分の妻は煕子しかいないと思えるほどの、心の美しさと強さを持った女性だったのではないでしょうか。

 

若い頃の光秀は、なかなか手柄を挙げることが出来ずもどかしい日々を送っていましたが、家族円満だったようで子供にも恵まれ、夫婦で支え合って苦しい時期を乗り越えました。

その後、光秀は織田信長に仕えて多くの手柄をあげ出世していきますが、天正4年(1576年)4月、病に倒れます。

過労が原因で風痢と呼ばれるノロウィルスのような感染症にかかってしまい、激しい腹痛や嘔吐、下痢などの症状が続いたそうです。

そんな光秀を煕子は一生懸命に看病をし、一時は危篤状態に陥った光秀は戦に復帰できるまでに回復しました。

明智光秀の妻・煕子の死因や美人の逸話

明智光秀の妻・煕子の死因や美人の逸話について見ていきましょう。

明智光秀の妻・煕子の死因:胃腸に関わる感染症

一時危篤状態に陥った光秀は回復したものの、今度は煕子が病気にかかってしまいます。

天正4年(1576年)10月14日に、光秀は煕子の病気が治るようにとお祓いを依頼しています。

10月24日には煕子の体調は回復したようで、11月2日に光秀の京都の屋敷へ煕子の見舞いのために客が訪れたという記録が残っています。

ですがその直後の天正4年(1576年)11月7日に、煕子は亡くなってしまいます。

亡くなったのは光秀の本拠地であった坂本城であると言われているため、京都からの帰り道に容態が急変したのではないでしょうか。

 

この事から、煕子の死因は風痢、つまり胃腸に関わる感染症ではないかと思われます。

このような感染症は、発症した患者から他人へうつることがあります。

煕子の場合は特に光秀につきっきりで看病していたため、看病疲れによって免疫力が低下して、この病気がうつってしまったのではないかと考えられます。

 

光秀も完全に復帰するまでには4か月ほどかかっているため、回復と悪化を繰り返す病気だったと考えられます。

そのため煕子が一時的に回復したタイミングで坂本城へ戻ろうとしたものの、道中で一気に悪化し亡くなってしまったのではないでしょうか。

光秀にとっては悔やんでも悔やみきれない、悲しい別れとなってしまったと言えそうです。

明智光秀の妻・煕子の美人だと言われる逸話

死亡時のエピソードからも分かるように、煕子は光秀を献身的に支えた妻でした。

光秀は若い頃一度浪人となって、新しく仕える家を探していた時期があります。

しかし生活が苦しく、なかなか仕官する機会を作ることが出来ません。

そんな中、越前の国(現在の福井県)で一揆を収めるという手柄を上げた光秀は、越前の大名・朝倉家の武将を呼んで連歌会を開く事になります。

しかし、明智家には客をもてなす為のお金がありません。

そこで煕子は、自分の髪を売って資金を作ります。

連歌会は成功し、光秀は正式に朝倉家に仕える事になりました。

当時、長く美しい黒髪は美人の条件の1つでしたから、髪を売るという行動は強い覚悟が必要だったはずです。

煕子の愛情の深さと、夫を信じる気持ちの強さを感じます。

 

そして、煕子は非常に美しい女性だったと思われるエピソードがあります。

それは、織田信長と光秀夫婦にまつわる話です。

信長はある夜、家臣たちと雑談を楽しんでいました。

その時美人についての話題になり、光秀の妻が天下一の美女だと言う者がいました。

その噂を確かめたくなった信長は家臣の妻たちを城へ呼び、隠れて煕子を待ち伏せしていました。

そして後ろから抱き着こうとしたところ、煕子は扇で信長を叩いて撃退してしまったそうです。

 

信長は家臣の夫婦円満を推奨していたので、この行動も冗談のつもりだったのかもしれませんが、主君であってもダメなものはダメだとはっきり態度で示した煕子は、やはり芯の強い女性だったと言えそうです。

また光秀と煕子の間に産まれた娘も、信長に美しさを認められています。

その娘は細川ガラシャと言い、キリシタンとして有名な女性なので、名前だけは聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。

彼女は元々は明智珠という名前でしたが、光秀の親友・細川藤孝の息子と結婚しました。

夫はガラシャがあまりにも美しいので、他の男性が彼女に近づく度に焼きもちを焼いていたと言われています。

という事は、その母であった煕子もやはり美人だったのではないかと思います。

「麒麟が来る」では木村文乃さんが演じていますが、包み込むような優しさを感じさせる美しい姿が、光秀の心を支え続けた煕子のイメージにピッタリだと思いました。

光秀にとって、生涯自分に寄り添って戦いの疲れを癒してくれた存在。

それが最愛の妻・煕子だったのではないでしょうか。

まとめ

・明智光秀と妻・煕子の夫婦関係

戦国武将は何人かの妻を持つことが普通でしたが、光秀は1人の女性だけを妻として大切にしたと言われています。

・明智光秀の妻・煕子の病気:疱瘡(天然痘)

光秀と煕子の婚約が決まった後、煕子は疱瘡(天然痘)という病気にかかります。

死亡する確率は20%~50%と高く、仮に命が助かっても後遺症が残る事が多かったそうです。

・明智光秀の妻・煕子の死因:胃腸に関わる感染症

煕子の死因は風痢、つまり胃腸に関わる感染症ではないかと思われます。

・明智光秀の妻・煕子の美人だと言われる逸話

信長はある夜、家臣たちと雑談を楽しんでいました。

その時美人についての話題になり、光秀の妻が天下一の美女だと言う者がいました。

 

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シゲゾウ
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