は今川義元に付き従った軍師であるとともに、のちの徳川家康にも多大な影響を与えた人物でもあります。
今回は、太原雪斎の凄さ・強さはどれほどのものだったのか?について残されている逸話やエピソードをもとに紹介します。
天才的な政治力やいい話も解説します。
太原雪斎の凄さ・強さと逸話やエピソード
太原雪斎の凄さ・強さにまつわる逸話やエピソードを見ていきましょう。
太原雪斎と今川義元の関係:義元を後継ぎに仕立て上げた
「海道一の弓取り」と呼ばれ、広大な領地を支配した戦国大名・今川義元には、優秀な相談相手がいました。
それは太原雪斎というお坊さんです。
今回は雪斎がなぜ義元に重宝されたのか、その凄さについて詳しく見ていきます。
義元は今川家の五男だったため、家を継ぐことは無いだろうと考えられてお寺に預けられました。
その時、教育係を務めたのが雪斎です。
しかし義元の父が亡くなった後、家を継いだ兄と後継者だった次兄が次々と死亡し、義元が今川家に呼び戻されました。
この時、腹違いの兄が義元が家を継ぐことに反対し、当主の座を巡って争いになったのですが、雪斎が様々な工作を行って義元を支援しました。
まず雪斎は、京都で修行していた時代の人脈を利用し、室町幕府の将軍に働きかけて、義元が今川家の跡継ぎであるという正式な証を貰います。
そして、これまで今川家とは何度も争って来た隣国の武田家と和睦して味方につけました。
それでも合戦が避けられない状況になると、家臣たちへ根回しをして相手の戦力を減らし、戦いを有利に進めます。
この雪斎の働きのお陰で義元は戦に勝利し、無事に今川家の当主となりました。
太原雪斎の軍師としての強さ:全戦全勝
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雪斎は政治、外交、軍事など様々な分野で活躍しており、時には自分で軍を率いて合戦に参加する事もありました。
1546年から1549年にかけては、愛知県の西三河地方に何度も指揮官として出陣しています。
この頃、西三河地方を治めていたのは徳川家康の父・松平広忠でした。
そこへ織田信長の父・信秀が領地拡大のために攻めて来ているという状況でした。
広忠は織田家に対抗するため、今川家の力を借りることにしました。
織田家は非常に勢いがあり、義元も信秀相手に一度負けています。
しかし雪斎が大将として出陣した戦いはすべて勝っており、現場指揮官としても優秀だった事が分かります。
そして、ただ勝つだけではなく、先を見据えた成果をあげていました。
今川家は松平家を助ける代わりに、跡継ぎである家康を人質として差し出すように要求しました。
ところが家康は、今川家へ連れて来られる途中で織田家に売られてしまい、そのまま織田家の人質となってしまいました。
そこで雪斎は、織田家との戦いの中で信秀の息子・信広を捕え、家康と人質交換をします。
こうして松平家の跡継ぎを保護した事で、今川家が西三河地方を支配できるようになりました。
このように見ていくと、雪斎の強さの秘密は総合力の高さだと思います。
自分が持っている人脈や能力を効果的に利用する事で、大きな成果を挙げています。
雪斎は物事を柔軟に考えられる、頭の回転が速い人物だったのではないでしょうか。
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太原雪斎の政治家としての手腕・天才だったか?
太原雪斎の政治家としての手腕や政策、天才的な人物だったのかについて見ていきましょう。
太原雪斎の政治家としての手腕:僧侶の地位を利用
次に、太原雪斎の政治家としての活躍を見ていきます。
特に優れていたのは外交面です。
戦国時代、ある武家に仕えている者が、他の武家の領地へ入る事は大きな問題になりました。
しかし僧侶だけはその制限を受けず、どの国へも自由に行くことが出来ました。
雪斎はこれを上手く利用し、様々な国へ使者として出向いています。
領地が隣接していたため仲の悪かった今川家、武田家、北条家の3つの家で手を組むという甲相駿三国同盟を発案し、実現させたのも雪斎でした。
外交が得意であったという事は、話し上手で人当たりの良い人物だったのではないでしょうか。
また、主君である今川義元は領地経営に優れており、内政を得意としていました。
そういった政策は法律の整備や農地の測量・調査など、内政の根本的な部分に関わるものです。
義元が行った政策にも雪斎のアドバイスがありました。
そして、雪斎自身は実際の領地経営に必要な具体的な政策を行っています。
例として以下のような政策を行いました。
宗教統制
雪斎自身が信仰していた臨済宗を中心に神社や宗教を統制します。
商業重視
それぞれの土地で元々商売をしていた商人を保護し、商業活動を奨励します。
文化活動
木版印刷の技術を使って中国の歴史書を出版しました。
戦国時代に印刷技術を持っている大名家は限られており、今川家の文化水準がとても高かった事が分かります。
これらの活動によって今川家の領内は安定し、更に今川家の本拠地の駿府は、戦国三大文化街と言われるほど文化水準の高い大きな街になりました。
特に文化活動に力を入れていたのは、今川家の政治面での大きな特徴です。
今川家が滅んだ後も、子孫は文化人として江戸幕府に仕えていくことが出来ました。
雪斎は京都で修行を積んでいた事もあり、高い教養を身につけていたため、自身の経験から文化活動の大切さが分かっていたのかもしれません。
太原雪斎は天才か:若くして秀才として有名だった
雪斎は今川家の家臣である、庵原家の出身でした。
しかし14歳で出家して、京都の建仁寺という大きなお寺で10年以上修行を続けました。
そこで秀才として有名になり、噂を聞いた義元の父・氏親は、帰ってきて今川家に仕えて欲しいと頼みます。
雪斎はこの話を一旦は断り修行に打ち込みましたが、氏親は熱心に雪斎を誘い、最終的に義元の教育係を務める事になりました。
氏親も政治家として非常に優れた人物です。
その氏親から、どうしても今川家に欲しい人材だと認められたという事は、若い頃から優れた才能を発揮していたのではないでしょうか。
また雪斎は、同時代の武将からも高く評価されています。
武田信玄の軍師として活躍した山本勘助は「今川家は雪斎が居なくてはやっていけない家である」と評価しています。
そして徳川家康は「義元は雪斎とだけ相談して政治を行っていたため、他の家臣の権威が軽くなった。そのため雪斎が亡くなった後は政治が上手くいかないだろう」と評価しています。
この家康の評価から、雪斎が他の誰よりも義元に信頼され、重宝されていた事が分かります。
雪斎は義元からすれば自分の師匠ですが、家臣たちから見ればただのお坊さんです。
普通であれば身内に甘いと不満が出てもおかしくありませんが、そのような事は一切ありません。
つまり誰もが、実力があるから重宝されていると納得していた証拠だと言えます。
そして雪斎は古い考え方に縛られず、本当に大切な事は何か、と考えられる人物だったようです。
亡くなる前に義元に対して
「本当によくできた人は形などにこだわらず尊敬する事。
逆に素晴らしい肩書を持っていても、それに頼って偉そうにしているような僧侶は駄目である」
という事を心得として書き残しています。
雪斎の功績を見ていくと、様々な分野で一流の活躍をしており、天才だった事は間違いありません。
しかし本人の性格は、むしろ努力型だったのではないでしょうか。
僧侶としての修行に励んでいた時期から、勉強熱心だった事が分かっています。
しかも、ただ勉強して終わりという訳ではなく、身につけた知識を組み合わせて活用していく力に優れていた人物だったように思います。
この応用力の高さこそ、雪斎が活躍できた一番の理由だったのではないでしょうか。
まとめ
・太原雪斎と今川義元の関係:義元を後継ぎに仕立て上げた
雪斎の働きのお陰で義元は戦に勝利し、無事に今川家の当主となりました。
・太原雪斎の軍師としての強さ:全戦全勝
雪斎は政治、外交、軍事など様々な分野で活躍しており、時には自分で軍を率いて合戦に参加する事もありました。
雪斎が大将として出陣した戦いはすべて勝っており、現場指揮官としても優秀だった事が分かります。
・太原雪斎の政治家としての手腕:僧侶の地位を利用
僧侶だけはその制限を受けず、どの国へも自由に行くことが出来ました。
雪斎はこれを上手く利用し、様々な国へ使者として出向いています。
・太原雪斎は天才か:若くして秀才として有名だった
秀才として有名になり、噂を聞いた義元の父・氏親は熱心に雪斎を誘い、最終的に義元の教育係を務める事になりました。
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