は今川義元に付き従った軍師であるとともに、のちの徳川家康にも多大な影響を与えた人物でもあります。
今回は、太原雪斎の死因・死の理由を紹介します。
また、墓所や妙心寺との関係についても解説していきます。
太原雪斎の最期や死因・死の理由
太原雪斎の最期はどのようであったのか、死因・死の理由を見ていきましょう。
太原雪斎の最期・最後:穏やかな死
桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元ですが、実は広い地域を支配していた強力な大名でした。
そんな義元の強さの理由として、周りに優秀な人材が多かった事が挙げられます。
中でも軍師や政治顧問として活躍した太原雪斎の存在はとても大きく、雪斎が生きていたら桶狭間でも負けなかったのではないか、とまで言われています。
雪斎は臨済宗のお坊さんですが、文学、政治学、兵法も学んでおり、政治と軍事の両方で今川家を支えた人物で、時には自ら合戦の指揮をとる事もありました。
義元の相談役として長年活躍した雪斎は晩年、現在の静岡県藤枝市にある長慶寺で隠居生活を送りました。
そして弘治元年(1555年)10月、60歳で亡くなりました。
長慶寺は今川家第3代当主が建てた寺で、戦国時代にはかなり廃れていました。
雪斎はこのお寺の復興に力を尽くし、穏やかな最期を迎えたようです。
太原雪斎の最期の政治活動:今川家の安泰
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雪斎は亡くなる数年前、今川家に大きく貢献する2つの政治活動を行っています。
1つ目は、天文22年(1553年)に今川家領内の法律である、今川仮名目録の整備に力を尽くしました。
それまでも今川仮名目録は存在していましたが、新しい項目を追加して内容を充実させました。
2つ目は、天文23年(1554年)に隣国の武田信玄と北条氏康に働きかけ、同盟を結ぶ事を成功させました。
これにより内政面と外交面で今川家は安泰となり、雪斎は安心して隠居することが出来たのでしょう。
太原雪斎の死因・死の理由:病気の可能性が高い
太原雪斎の最期については、何が原因でどのような状況で亡くなったかがはっきり分かる記録は残っていません。
ただし年齢から考えると、老衰か病気によって亡くなったのではないかと言われています。
雪斎は家臣として現役で働いている時ではなく、隠居した後に亡くなっているため、事故や急病が原因で無い事は間違いないでしょう。
ここで雪斎が隠居した時期の、今川家の状況を見てみます。
関東を支配する北条家と、山梨から長野を支配する武田家と同盟を結んだことで、今川義元は尾張(現在の愛知県西部地方)から美濃(現在の岐阜県南部地方)へと勢力を拡大する事に専念できるようになりました。
この2つの国を支配できれば、当時の政治の中心であった京都まで攻め込むことも可能になり、天下を取る事も現実的になってきた、という絶好のタイミングです。
しかし雪斎の後継者となるべき人材は、まだ育っていませんでした。
もし死因が老衰だとすれば、何故ここで隠居したのかという説明が難しくなります。
というのも雪斎であれば、今川家にとって今がチャンスだという事が分かっているはずです。
であれば多少無理をしてでも現役で活動を続けるなり、後継者を育てるなり、なんらかの対策を練ったはずです。
ならばこのタイミングで隠居したのは、一時的に体調を崩したり病気がちだったため、義元が雪斎に療養を勧めたからではないでしょうか。
幸い雪斎の活躍もあって内政や外交に関する心配はありません。
そして雪斎の体調が良くなったら家臣として復帰してもらい、そこから本格的に天下取りへ動きだそうと考えていたのではないかと思います。
しかし周りが考えていたよりも雪斎の病状が重く、そのまま病気で亡くなったと考えれば、雪斎が隠居してから亡くなるまでの流れも、かなり自然ではないでしょうか。
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太原雪斎の墓所や妙心寺との関係
太原雪斎の墓所はどこにあるのか、妙心寺との関係について見ていきましょう。
太原雪斎の墓所:静岡県内に3か所
太原雪斎の墓は
- 静岡県富士市の善得寺跡
- 静岡県藤枝市の長慶寺
- 静岡県静岡市の臨済寺
の3か所にありますが、すべて雪斎と縁のあるお寺です。
善得寺は若い頃に雪斎が修行をしていたお寺で、一時期は住職も務めました。
長慶寺は雪斎が亡くなったお寺です。
そして臨済寺は今川家代々の供養のために建てられた寺で、雪斎はこのお寺の住職も務めた事があります。
臨済寺の墓地の最上段には今川家代々の墓が並んでいますが、雪斎の墓も一緒に建てられています。
主君の家のお墓と同じ場所に墓があるということは、雪斎が今川家に無くてはならない人物であり、その功績を周りも認めていた事の証だといえます。
太原雪斎の墓石の形・特徴と意味
そして、長慶寺と臨済寺の雪斎の墓は見た目が少し違いますが、どちらも禅宗の僧侶のお墓として使われる「無縫塔」という形をしています。
卵型の墓石が特徴的で、この形自体が禅宗の教えを表わしているそうです。
雪斎は自分の本質的な役割は僧侶だと考えていたのではないでしょうか。
僧侶として人々を救うにはどうしたら良いのかを考え、仏の教えを伝えるだけではなく、自分の知識を生かして安定した世の中にしていく事も必要だと信じ、行動していたように思います。
これらのお墓の形は、そういった雪斎の人々を救いたいという気持ちに敬意を表した形のように感じられます。
太原雪斎と妙心寺の関係:住職も経験し懇意だった
太原雪斎と関係が深いお寺は静岡県以外にもあります。
それが京都の妙心寺です。
実はこのお寺、2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公・明智光秀の位牌が安置されており、光秀を弔うために造られた明智風呂と呼ばれるお風呂が有名です。
雪斎は元々は今川義元の教育係でした。
義元は幼い頃に寺に預けられて出家しており、雪斎と2人で京都へ行って修行を積んでいます。
その時期にいくつかのお寺を回りますが、雪斎は最終的には妙心寺で学問に励む事に決めました。
後に臨済寺を建てることが決まった時、雪斎は自分の師匠を妙心寺から呼び寄せて初代の住職になってもらい、自分は跡を継いで2代目住職になっています。
どのお寺でも初代住職はとても名誉ある役職ですから、妙心寺での修行が雪斎にとって大切な出来事だったと分かります。
妙心寺の方も雪斎を高く評価していたようです。
天文19年(1550年)には、雪斎を呼び寄せて妙心寺の第35代住職に任命しています。
妙心寺は永正6年(1509年)頃から敷地が大きくなり、お寺としての格が上がっていました。
つまり雪斎が呼ばれた頃は、大きくなったお寺を今後どうしていくかを考える必要が出てきた時期です。
そこで政治力にも優れた雪斎に住職を任せたのではないでしょうか。
雪斎もこれに応え、今川家の領地にも多くのお寺を建てて、臨済宗妙心寺派の普及活動に力を入れました。
また戦国大名の中で、臨済宗妙心寺派が1つのブランドになりました。
様々な大名が教育係や相談役として、妙心寺派のお坊さんを頼るようになったのです。
例えば、織田信長が掲げた天下布武という考え方や地名の改名などは、信長に仕えていた僧侶と相談して決めたと言われています。
伊達政宗の父は、遠くからわざわざ妙心寺派の僧侶を呼び、息子の教育係を任せました。
あの太原雪斎が学んだ宗派であれば武士の教えとして相応しい、と思われていた可能性は高く、ブランドとして確立したのも雪斎の影響があったからではないでしょうか。
こうして臨済宗妙心寺派は戦国大名に支持され、非常に大きなお寺となって現代へ続いています。
仏教には「報恩謝徳」という言葉があり、受けた恩に対し感謝の気持ちを持って報いるという意味です。
雪斎はまさにこの言葉通りに妙心寺と関わっていたように思います。
まとめ
・太原雪斎の最期・最後:穏やかな死
義元の相談役として長年活躍した雪斎は晩年、現在の静岡県藤枝市にある長慶寺で隠居生活を送りました。
そして弘治元年(1555年)10月、60歳で亡くなりました。
・太原雪斎の最期の政治活動:今川家の安泰
- 今川仮名目録の整備
- 隣国の武田信玄と北条氏康に働きかけ、同盟を結ぶ
・太原雪斎の死因・死の理由:病気の可能性が高い
太原雪斎の最期については、何が原因でどのような状況で亡くなったかがはっきり分かる記録は残っていません。
・太原雪斎の墓所:静岡県内に3か所
- 静岡県富士市の善得寺跡
- 静岡県藤枝市の長慶寺
- 静岡県静岡市の臨済寺
・太原雪斎の墓石の形・特徴と意味
そして、長慶寺と臨済寺の雪斎の墓は見た目が少し違いますが、どちらも禅宗の僧侶のお墓として使われる「無縫塔」という形をしています。
・太原雪斎と妙心寺の関係
妙心寺は大名の教育係や相談役の僧侶を多く輩出し、雪斎も義元の教育の場として妙心寺を選びました。
また、臨済寺の建立にあたっては妙心寺から僧侶を呼び初代住職になってもらうなど親交を深めていました。
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