映画「関ヶ原」は木村拓哉×二宮和也主演で話題にもなった「検察側の罪人」の原田眞人監督が司馬遼太郎原作の歴史小説「関ヶ原」を映画化した作品です。
あまりにも難解で歴史が頭に入っていない人には何を話しているのかも聞き取りづらい初見殺しな作品ですが、噛み砕いていけば楽しめる作品になっています。
今回は島左近(平岳大)の兜についていた位牌は誰のものなのか?
兜に付けている位牌の戒名や付けている理由についてご紹介します。
また剣術やその強さについてもご紹介します。
映画「関ヶ原」島左近が兜に付けていた位牌は誰のもの?
関ヶ原の戦いに赴く島左近(平岳大)の兜に付けていた位牌はいったい誰のものなのでしょうか?
映画の演出なのか実在したものなのかご紹介します。
島左近とはどういう人物か役どころは?
映画「関ヶ原」において島左近(平岳大)は石田三成(岡田准一)の軍師として仕え、その後の関ヶ原の戦いでも石田三成(岡田准一)を大将として、また参謀としても支えました。
関ヶ原の戦いではすでに60歳を迎えており、老体に鞭を打ちつつも最期まで仕えると決めた石田三成(岡田准一)のために戦い果てます。
兜につけていたのは亡き母の位牌
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映画「関ヶ原」の関ヶ原の戦いのときに島左近(平岳大)が兜につけていた位牌は演出ではなく現存しています。
大和国出身であった島左近(平岳大)ゆえに奈良県に平郡町の安養寺に保管されています。
出典;発見!! 島左近母の位牌
上の画像から、位牌の表面には「安養寺殿安耀真栄大姉」、裏面には「天文十八年九月十五日 嶋佐近頭内儀」と記されています。
表面の名前は戒名です。
裏面にはその戒名を与えられた人の死没年月日と名前が記されています。
「嶋佐近頭内儀」とは、「嶋佐近頭(しまさこんのかみ)」という人物の「内儀(妻)」という意味です。
ここに書かれている「嶋佐近頭」は映画「関ヶ原」に出てくる島左近(平岳大)ではなく、その父である先代と考えられます。
天文十八年は1549年で島左近(平岳大)は1540年生まれなので15歳の時にこの人は亡くなったことになります。
自然に考えれば、島左近(平岳大)のお母さんの位牌と言えます。
ここで一つ奇しくも興味深い偶然が生まれています。
位牌に記された島左近(平岳大)の母の死没は1549(天文18)年9月15日。
関ヶ原の戦いで島左近(平岳大)が死没したのは1600(慶長5)年9月15日。
島左近(平岳大)はこのことに気づいていたため、位牌を息子に託すことにしたのかもしれません。
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映画「関ヶ原」位牌の戒名の意味や兜に付けた理由は?
映画「関ヶ原」で島左近(平岳大)が位牌を兜に付けた理由について解説します。
また兜につけている位牌の戒名にはどういった意味が込められているのでしょうか?
兜に位牌をつけていた理由は?
映画「関ヶ原」の終盤、いよいよ関ヶ原の戦いがはじまるそのとき、妻である花野(中越典子)のもとを発ち、戦場へと赴きます。
このときに息子である島信勝(山村憲之介)は島左近(平岳大)の兜を抱えて、2人して戦場へ向かっていきます。
このとき島信勝(山村憲之介)が手にしていた島左近(平岳大)の兜には正面の飾りのところに位牌が備え付けられています。
戦国時代の後期には兜のデザインは個性豊かになり、さまざまな思いを込めたり家ごとに伝統とするデザインをするようになってきます。
しかし、位牌というのは島家のデザインというには違和感があります。
島左近(平岳大)はその後、霧の中で伊賀忍者の赤耳(中嶋しゅう)から徳川家康の東軍の人数や陣形を伝えられ、そのときに地面に座り兜から位牌を取り外して息子である島信勝(山村憲之介)に手渡しています。
関ヶ原の戦いがはじまり戦況が悪化してきたときに、小早川秀秋(東出昌大)への使者として島信勝(山村憲之介)を松尾山へ向かわせます。
兜につけた位牌はそのままに島家の誰か大切な人の位牌であり、願掛けのようなものといえます。
島左近の兜に付けた位牌の戒名の意味は?
映画「関ヶ原」で島左近(平岳大)が兜に付けている位牌は、亡き母のものであるとわかりました。
ではこの位牌に書かれた戒名にはどのような意味があるのでしょうか?
戒名は4つのブロック「院号(院殿号)」「道号」「戒名」「位号」に分けられます。
院号(院殿号) | 寺院に貢献した人に贈られる称号。 お寺や時代を築くほどの影響力がある人に付けられる。 |
道号 | 戒名の格を上げてくれる。 その人の性格や特徴を反映した文字が与えられる。 |
戒名 | 先祖代々つけられた字、仏教の言葉や尊敬する人から字をもらうことがある。 |
位号 | 性別や年齢、階級を表すもの。 |
島左近(平岳大)の付けている位牌の場合は「安養寺殿安耀真栄大姉」ということなので、それぞれのパーツに分解して意味を見ていくと次のようになります。
院殿号 | 安養寺殿 | 現在、位牌が保管されている安養寺に対して武士の家系に属した人物で、寺院の建立やお布施を励んだ人だと分かる。 |
道号 | 安耀 | 島左近の母は、心安らかでありその存在は光り輝く太陽のようでもあったという人物像が分かる。 |
戒名 | 真栄 | 島左近の母の名前は分かっていないので、本名が取られているのか2文字とも文献や人から与えられたものかは分かりません。 |
位号 | 大姉 | 位号「清大姉」の次に信仰心が厚くくらいの高い人物に与えられる位。 |
安養寺に対して信仰心が厚く、優しく心おだやかで暖かい包容力のあり、ときには島左近(平岳大)を心の底で導いてくれていた母であったのだろうと推測することができます。
映画「関ヶ原」島左近の剣術や強さは?
映画「関ヶ原」島左近の剣術や強さはどれくらいだったのか見ていきましょう。
島左近の剣術の流派は?
島左近(平岳大)の出身については明確にはわかっていません。
大和国(今の奈良県)の生まれであるとされていて、その後も大和国を治めた大名の元に仕えていきます。
筒井家に仕えたときには今も有名な柳生新陰流を開いた柳生石舟斎(辻萬長)と出会っています。
同じ大和国で育ち、剣術と医術を極めてきた島家と柳生家は映画「関ヶ原」でも描かれているように東軍と西軍にそれぞれ別れて仕えることで勝った側に仕えていた方が生き残りを養い、技術を後世に伝えることを契約しています。
残念ながら島家は実質的に滅んでしまったために柳生家と違い、その剣術について記したものはありません。
もし歴史が違っていたら、逆のことになっていた・・・のでしょう。
島左近のこれまでの功績は?
島左近(平岳大)は当初は畠山家に仕えていたとされています。
畠山家の没落後、は筒井家に仕えていたとされていますが島左近(平岳大)がいたことを示す資料はあまり残されていません。
功績を示す資料もありませんが、筒井家を支え続けた結果重臣に加えられたとされています。
石田三成(岡田准一)をはじめ、多くの武将たちが筒井家を去った島左近(平岳大)を我が元へと誘っていることから、歴史にはその功績は残されていませんがかなりの人気ぶりだったことは間違いありません。
治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
という言葉が生まれるほどに武術も軍師としても高い評価を受けていたことがわかります。
関ヶ原の戦いでの活躍について
関ヶ原の戦いでは、その前日に500人の兵士をつれて東軍の中村一栄と有馬豊の郡に奇襲を仕掛けて勝利します。
これを受けて島左近(平岳大)は人数的に不利な西軍が勝利するにも奇襲が効果的だと考え、夜襲を石田三成(岡田准一)に提案します。
しかし、正義のための戦いを掲げている石田三成(岡田准一)には「夜襲を仕掛けて勝利したとなれば、後世の笑い者になる」と言い、この提案を跳ね除けます。
その後関ヶ原の戦いでは軍師として、また一兵士として十二分に戦果を挙げ、黒田長政(和田正人)の軍から銃撃をされるも回復して再び戦場へと舞い戻っています。
その戦いぶりは徳川の兵士たちによれば
「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」
引用:常山紀談
と語り継がれるほどだったそうです。
まとめ
・島左近とはどういう人物か役どころは?
映画「関ヶ原」において島左近(平岳大)は石田三成(岡田准一)の軍師として仕え、その後の関ヶ原の戦いでも石田三成(岡田准一)のために最期まで戦い、果てます。
・兜につけていたのは亡き母の位牌
島左近(平岳大)のお母さんの位牌と言えます。
・兜に位牌をつけていた理由は?
兜につけた位牌はそのままに島家の誰か大切な人の位牌であり、願掛けのようなものといえます。
・島左近の兜に付けた位牌の戒名の意味は?
島左近(平岳大)の付けている位牌の場合は「安養寺殿安耀真栄大姉」ということなので、安養寺に対して信仰心が厚く、優しく心おだやかで暖かい包容力のあり、ときには島左近(平岳大)を心の底で導いてくれていた母であったのだろうと推測することができます。
・島左近の剣術の流派は?
残念ながら島家は実質的に滅んでしまったために柳生家と違い、その剣術について記したものはありません。
・島左近のこれまでの功績は?
功績を示す資料もありませんが、多くの武将たちが筒井家を去った島左近(平岳大)を我が元へと誘っていることから、歴史にはその功績は残されていませんがかなりの人気ぶりだったことは間違いありません。
・関ヶ原の戦いでの活躍について
関ヶ原の戦いでは、その前日に500人の兵士をつれて東軍の中村一栄と有馬豊の郡に奇襲を仕掛けて勝利します。
その戦いぶりは徳川たちを恐れ戦かせています。
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