映画「関ヶ原」は木村拓哉×二宮和也主演で話題にもなった「検察側の罪人」の原田眞人監督が司馬遼太郎原作の歴史小説「関ヶ原」を映画化した作品です。
あまりにも難解で歴史が頭に入っていない人には何を話しているのかも聞き取りづらい初見殺しな作品ですが、噛み砕いていけば楽しめる作品になっています。
今回は西軍の敗北を決定づけた小早川秀秋(東出昌大)の裏切りの理由について、また小早川秀秋が関ヶ原の戦い後どうなったのかその死因についてもご紹介します。
映画「関ヶ原」小早川秀秋の裏切りの理由は?
映画「関ヶ原」の小早川秀秋(東出昌大)が西軍・石田三成(岡田准一)を最後に裏切り、東軍・徳川家康(役所広司)に味方した理由はいったいなんなのでしょうか?
史実と映画の違いについても見ていきましょう。
史実の関ヶ原での小早川秀秋の裏切りの理由
史実においても関ヶ原の戦いが始まって以降も小早川秀秋(東出昌大)は西軍か東軍のどちらにつくべきかを決められずにいたそうです。
逸話として、あまりの優柔不断さに苛立った徳川家康(役所広司)は小早川秀秋(東出昌大)の陣営に鉄砲を打ち込んだと言われるほどです。
その後、戦いが始まり約3時間ほど経ってから小早川秀秋(東出昌大)は陣取っていた松尾山を下り、近くに陣取っていた大谷刑部(大場泰正)の陣へ攻め入りました。
その後、小早川秀秋(東出昌大)に加勢する軍勢があり、夕方までに西軍は壊滅しました。
結果として小早川秀秋(東出昌大)は関ヶ原の戦いを決定づける働きをすると同時に、豊臣家の人間でありながら豊臣側を戦いの最中に裏切る卑怯者として非難されることになりました。
映画「関ヶ原」での小早川秀秋の裏切りの理由は家臣の策略
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映画「関ヶ原」においても、大筋では史実と変わりません。
小早川秀秋(東出昌大)はいっこうに東軍にも西軍にも加勢する動きを見せずにいたところに、決死の覚悟で島左近(平岳大)の息子である島信勝(山村憲之介)が現れ、小早川秀秋(東出昌大)の前に現れます。
その姿に小早川秀秋(東出昌大)の心は決まり「三成に味方するぞー!家康を討てー!」と言います。
すると、かつて徳川家康(役所広司)に懐柔されるときに遣わされた柳生家の五郎右衛門(田島俊弥)は島信勝(山村憲之介)を斬り伏せてしまいます。
唖然としている間に、周囲の家来たちは「豊臣を討て!!!」と言って出陣して行ってしまいます。
映画「関ヶ原」においては最終的に心を動かされた小早川秀秋(東出昌大)でしたが、家臣が声を聞かずに飲み込まれてしまったという解釈をしています。
史実でも、小早川秀秋(東出昌大)の優柔不断さには監視役がつけられていたり、戦いの最中に裏切るように家臣たちの間で密約が交わされていたようです。
また、映画「関ヶ原」ではそれだけでなく柳生家と島家に注目した描き方がされています。
つまり、島家は西軍についており、柳生家は東軍につくことになりました。
そうしてどちらかが生き残れるように準備をしておいたのです。
それなのに東軍として生き残らなければならない柳生五郎右衛門(田島俊弥)が小早川秀秋(東出昌大)とともに西軍の味方をするわけにはいかないという事情もあったのではないか?という切り口で描かれています。
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映画「関ヶ原」小早川秀秋のその後や死因は?
関ヶ原の戦いで東軍・徳川家康(役所広司)の側に寝返り、生き延びることができた小早川秀秋(東出昌大)はその後どうなっていったのでしょうか?
また小早川秀秋(東出昌大)の死因はなんなのかご紹介します。
映画「関ヶ原」小早川秀秋のその後は?
関ヶ原の戦いで大役を果たした小早川秀秋(東出昌大)は戦いの後、小早川秀詮(ひであき)に字を改めています。
しかしその生涯は短く、関ヶ原の戦いから2年後の1602年10月18日に小早川秀秋(東出昌大)は21歳の若さで急死しています。
小早川家には跡継ぎがいなかったことで、小早川秀秋(東出昌大)が有していた広大な土地は全て徳川政権のものになってしまいます。
小早川秀秋(東出昌大)の家臣たちは死後に幕府に召し出されて大名となったいきました。
豊臣秀吉(滝藤賢一)のころならば、跡継ぎがいなければ容姿を迎えてでも継承させるように取り計らわれてきましたが、徳川家康(役所広司)はそれを許さず、小早川家もその対象となりました。
もしかすると徳川家康(役所広司)の心のどこかでは、西軍に気持ちが揺らいだことのある小早川秀秋(東出昌大)を功績を挙げはしたものの許してはいないところがあったのではないかと言われています。
ちなみに小早川家はその後、明治に変わってから毛利本家が願い出たことで、毛利家から容姿を出してお家再興を果たすことになります。
映画「関ヶ原」小早川秀秋の死因は?
小早川秀秋(東出昌大)の死因として、逸話的に語られているものは西軍を裏切り大谷刑部(大場泰正)を討ったことで呪い殺されたとするものがあります。
実際のところは幼少期からアルコールを摂取しており、重度のアルコール依存により内臓疾患が死因ではないかとされています。
アルコール依存に陥った理由には度重なる豊臣秀吉(滝藤賢一)からのいびりによるものと言われています。
関ヶ原の戦いが終わってからも、東軍についた自分の選択は間違いではなかったのかなどを責め続けてアルコールに逃げて、病状を悪化させたと考えられます。
まとめ
・史実の関ヶ原での小早川秀秋の裏切りの理由
史実においても関ヶ原の戦いが始まって以降も小早川秀秋(東出昌大)は西軍か東軍のどちらにつくべきかを決められずにいたそうです。
その後、戦いが始まり約3時間ほど経ってから小早川秀秋(東出昌大)は陣取っていた松尾山を下り、近くに陣取っていた大谷刑部(大場泰正)の陣へ攻め入りました。
・映画「関ヶ原」での小早川秀秋の裏切りの理由は家臣の策略
小早川秀秋(東出昌大)のもとに決死の覚悟で島左近(平岳大)の息子である島信勝(山村憲之介)が現れ、その姿に小早川秀秋(東出昌大)の心は決まり「三成に味方するぞー!家康を討てー!」と言います。
しかし家臣は声を聞かずに西軍を討つことを決定してしまいます。
・映画「関ヶ原」小早川秀秋のその後は?
関ヶ原の戦いで大役を果たした小早川秀秋(東出昌大)は戦いの後、小早川秀詮(ひであき)に字を改めています。
しかしその生涯は短く、関ヶ原の戦いから2年後の1602年10月18日に小早川秀秋(東出昌大)は21歳の若さで急死しています。
・映画「関ヶ原」小早川秀秋の死因は?
小早川秀秋(東出昌大)の死因として、幼少期からアルコールを摂取しており、重度のアルコール依存により内臓疾患が死因ではないかとされています。
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