映画「関ヶ原」は木村拓哉×二宮和也主演で話題にもなった「検察側の罪人」の原田眞人監督が司馬遼太郎原作の歴史小説「関ヶ原」を映画化した作品です。
あまりにも難解で歴史が頭に入っていない人には何を話しているのかも聞き取りづらい初見殺しな作品ですが、噛み砕いていけば楽しめる作品になっています。
今回は徳川家康が関ヶ原の戦いの前日に作っていたり武士たちが背中につけていた母衣の色の意味についてご紹介します。
映画「関ヶ原」母衣(ほろ)の色の意味は何?
映画「関ヶ原」で馬に乗る武将たちが背中に母衣(ほろ)と呼ばれる膨らんだ布をつけて関ヶ原の戦いに参戦しています。
赤や黒、黄色、青と白のボーダーなどさまざまな色がありますが、母衣(ほろ)のこうした色にはどういった意味があるのでしょうか?
母衣(ほろ)の由来や意味は?
母衣(ほろ)は映画「関ヶ原」でも終盤に関ヶ原の戦い前日には徳川家康(役所広司)が興奮して寝付けないと言って作っていたり、その後の関ヶ原の戦いでも馬に乗る武士たちが身につけています。
徳川家康(役所広司)が作中でも語っている通りで母衣(ほろ)は「母の衣」と書くだけあって、母親と赤ちゃんの関係からきた言葉です。
赤ちゃんが母親の胎内にいるとき、胞衣(えな)というものに守られています。
胞衣(えな)は今で言うところの胎盤やへその緒などの総称です。
徳川家康(役所広司)は赤ちゃんにとっての胞衣(えな)と武士にとっての母衣(ほろ)は同じような境遇にあり、似ていると話します。
どちらも命のやり取りをしているのだと。
母衣(ほろ)の色や模様の意味は?
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母衣(ほろ)の歴史は古く、平安時代にはすでに存在していたと言われています。
平安時代ごろの母衣(ほろ)には防具としての役割が優先されていましたが、徐々に目立つためという役割が強くなるとともに母衣の色には正当なルールが確立されていきました。
1400年代(室町時代)には母衣(ほろ)の色のルールとして「紅色が本来の母衣(ほろ)の色であり、紅白もOK、白は老武者がつけるもの」と言われるようになります。
織田信長は母衣(ほろ)に赤と黒の2つのバージョンを取り入れ、豊臣秀吉(滝藤賢一)は派手好きということもあり金色に近いため黄色い母衣(ほろ)を家臣につけさせました。
徳川家康の母衣(ほろ)の色や意味は?
戦国時代の後期には織田信長をはじめ、家臣たちの中でも精鋭の限られた者だけに母衣(ほろ)の使用を許したり、本陣と前線を行き来する特別な任務を与えられた者だけが使用することができるようになります。
そうした母衣(ほろ)を使うことのできる者たちを「母衣衆(ほろしゅう)」と呼びます。
織田信長は自軍内に黒い母衣衆と赤い母衣衆を築き、さらに優れた武士が生まれるように対立構造を構築するために利用していました。
映画「関ヶ原」では東軍・徳川家康(役所広司)の陣営は赤い母衣(ほろ)を背中につけており、西軍・石田三成(岡田准一)の陣営は黒い母衣(ほろ)、宇喜多家は豊臣家に使えていたこともあり黄色い母衣(ほろ)を使用しています。
徳川家康(役所広司)が赤い母衣(ほろ)を使用していた理由はかつての母衣の色の意味に立ち戻り「本来の母衣(ほろ)の色」だから、と言えます。
石田三成(岡田准一)の黒い母衣(ほろ)は見分けをつけやすくするためという理由が一つ、もう一つは旗印の「大一 大万 大吉」が黒白なので、黒い母衣(ほろ)が統一感もあり優先されたと考えられます。
ちなみに小早川秀秋(東出昌大)は白と青のボーダーカラーの母衣(ほろ)を使用しています。
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映画「関ヶ原」母衣(ほろ)の効果や防具としての役割は?
映画「関ヶ原」は戦国時代の末期ということもあり、母衣(ほろ)は敵にも味方にも目立って見えやすくするためという意味が強くありました。
母衣(ほろ)の効果や防具としての役割にはどのようなものがあるのでしょうか?
母衣(ほろ)を背中につける効果は?
戦国時代になって集団戦闘が盛んになると、武士が母衣(ほろ)を背中につけていた理由は自分の存在を目立たせるためということが目的に変わっていきます。
母衣(ほろ)を背中につける一つの効果は、やはりその奇抜さで自分の存在を周囲に目立たせることにあります。
映画「関ヶ原」で徳川家康(役所広司)に仕える侍女の「みや」が母衣(ほろ)を武士が背負って戦場に向かう理由を「男を売るため(名をあげるため)」という答えは正しいと言えます。
また、母衣(ほろ)を背中につけていい身分の人間が制限されていきました。
母衣(ほろ)を背中につけた武士が討ち取られた場合は母衣(ほろ)が身分の高さを表すため、その武士の遺体を丁重に供養しなければならないというルールも生まれました。
また、母衣(ほろ)を背中につけた敵と倒した場合、母衣(ほろ)にはその敵兵の名前や身分などが書き記してあるので、戦のあとの褒美にも影響を与えました。
母衣(ほろ)の防具としての役割は?
母衣(ほろ)は平安時代ごろには既に存在しており、もっと昔から存在していたとも言われています。
戦国時代の母衣(ほろ)は竹かごの枠組みに布を張って膨らんだ状態を保っていますが、このような竹かごを組む作り方は室町時代ごろになって興ったと言われています。
大昔の母衣(ほろ)はマントのような形状をしていて、手や首などに紐で括りつけることで風を受けた時に膨らむというものでした。
当時は防寒対策として存在したという説もあります。
母衣(ほろ)の防具としての役割は何と言っても後方からの矢や石などを防ぐことができる点です。
戦国時代になると近接戦闘・白兵戦が多くなってきますが、かつては弓矢などの遠距離戦闘が主流だったため、母衣は防具の一つとしての役割を与えられていました。
矢や石の威力をたなびいた母衣(ほろ)が分散させてくれるというわけです。
また、背中について揺れ動いた母衣(ほろ)は目立ちますし、風の動きによって不規則に動くため、弓矢の狙いを定めるのを妨害する役割もあります。
まとめ
・母衣(ほろ)の由来や意味は?
赤ちゃんが母親の胎内にいるとき、胞衣(えな)というものに守られています。
母衣(ほろ)とは胞衣(えな)のことを指します。
・母衣(ほろ)の色や模様の意味は?
紅色が本来の母衣(ほろ)の色であり、紅白もOK、白は老武者がつけるものという意味があります。
・徳川家康の母衣(ほろ)の色や意味は?
徳川家康(役所広司)が赤い母衣(ほろ)を使用していた理由はかつての母衣の色の意味に立ち戻り「本来の母衣(ほろ)の色」だからです。
・母衣(ほろ)を背中につける効果は?
母衣(ほろ)を背中につける一つの効果は、やはりその奇抜さで自分の存在を周囲に目立たせることにあります。
・母衣(ほろ)の防具としての役割は?
母衣(ほろ)の防具としての役割は後方からの矢や石などを防ぐことができる点です。
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