映画「関ヶ原」は木村拓哉×二宮和也主演で話題にもなった「検察側の罪人」の原田眞人監督が司馬遼太郎原作の歴史小説「関ヶ原」を映画化した作品です。
あまりにも難解で歴史が頭に入っていない人には何を話しているのかも聞き取りづらい初見殺しな作品ですが、噛み砕いていけば楽しめる作品になっています。
今回は映画「関ヶ原」の序盤に話が上がった豊臣秀吉の謀反とその妻子らの三条河原の処刑についてご紹介します。
映画「関ヶ原」豊臣秀次が殺された理由と最後は?
映画「関ヶ原」の冒頭で豊臣秀次が豊臣秀吉(滝藤賢一)への謀反を起こそうとしていたという話が出てきます。
その疑いのために豊臣秀次は殺されたとありますが、いったいどういった理由があったのでしょうか?
また豊臣秀次の最後はどのようであったのかをご紹介します。
豊臣秀次とは誰でどんな人?
豊臣秀次は豊臣秀吉(滝藤賢一)のお姉さんの子供、つまり豊臣秀吉(滝藤賢一)の甥っ子にあたります。
豊臣秀吉(滝藤賢一)と淀殿との間には豊臣鶴松という息子がいましたが死んでしまったため、急遽跡取りを確保するために養嗣子にされて一度目の朝鮮出兵「文禄の役」の直前には関白となり、豊臣秀吉(滝藤賢一)に次ぐナンバー2のポジションにいました。
豊臣秀吉(滝藤賢一)は息子が死んでしまったために豊臣秀次を跡継ぎに仕立て上げましたが、幸か不幸か待望の息子・豊臣秀頼が誕生してしまい、豊臣秀次は豊臣秀吉(滝藤賢一)にとっては用済みになってしまいます。
豊臣政権におけるナンバー2だけあって側室の数は30を超えます。
芸術への造詣が深く、和歌の編纂など後世の芸術の発展に多く寄与しています。
戦においても一度だけ小牧・長久手の戦いで敗戦を経験していますが、それ以外は負けたことがないほど有能な武人でした。
だからこそ、豊臣秀吉にとっては目の上のたんこぶになってしまったのでしょう。
豊臣秀次が秀吉に謀反を起こしたのは本当?
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豊臣秀頼が生まれて1年半がたった1595(文禄4)年6月に突如として豊臣秀次が鷹狩りと称して諸大名を集めて謀反を起こすための談合をしているという噂が現れます。
噂が流れた以上は豊臣秀吉(滝藤賢一)の家臣らは動かざるを得ないので豊臣秀次のもとに行き真偽を確かめます。
すると一番驚かされたのは豊臣秀次本人であり、否定するとともに謀反を起こす気など一切ないという内容の誓紙を提出します。
これで事なきを得ず、豊臣秀次が7月3日には朝廷に3000枚の金銀を献上したことが新たな火種となり、やはり自分の権力を朝廷に知らしめるための根回しをしていたじゃないかと言いがかりをつけられます。
豊臣秀吉(滝藤賢一)から伏見城への出頭命令が出ますがすぐにはそれに応じませんでした。
その後、元家臣であった前田玄以らから「本当に謀反を起こそうしているのなら兵を挙げて協力をしたい、もしそうでないなら伏見城へ行ってほしい」と聞かされ、伏見城に出頭しますが入場を認められない代わりに「高野山へ行け」と命じられます。
何かを悟った豊臣秀次は剃髪して高野山へと出家します。
その後も豊臣秀吉(滝藤賢一)は出家した豊臣秀次に出入り禁止や監視をつけたり服装の制限をするなど徹底しています。
朝廷に金銀を献上した点は気にはなりますが、謀反の意思はありませんでした。
豊臣秀次は最後自刃したのか?
7月13日に豊臣秀次の家老やその妻子らが自害、斬首されており、7月15日には福島正則(音尾琢真)らが高野山に向かい、豊臣秀吉(滝藤賢一)から謀反を企てたことを理由に自刃を命じられます。
高野山の僧侶らが抗議をして引き延ばしを図ってくれますが、福島正則(音尾琢真)から命令に逆らえば高野山もろとも滅ぼすと脅され、豊臣秀次は付き従ってくれていた家臣たちを介錯したのち豊臣秀次自身も切腹しました。
28歳の若さでした。
実質的には7月3日の朝廷への金銀の献上から12日間で豊臣政権のナンバー2ともなる豊臣秀次は命を奪われることになります。
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映画「関ヶ原」三条河原の処刑の理由は?
映画「関ヶ原」で三条河原に連れていかれる姫君や妻子たちが処刑されることになった理由はなんでしょうか?
どういった流れから豊臣秀次の妻子たち全員が処刑されることになったかの流れをご紹介します。
三条河原で処刑されることになった流れは?
豊臣秀次の首は福島正則(音尾琢真)によって豊臣秀吉(滝藤賢一)のもとに運ばれます。
豊臣秀吉(滝藤賢一)は豊臣秀次一人の死では満足できずにいました。
通常は男は処刑されるか出家、女たちも出家したりどこかの家に嫁がされることが多くありました。
しかし、映画「関ヶ原」ではここで徳川家康(役所広司)が妻子もろとも、一人残らず処刑しないと豊臣秀頼の将来にも悪影響を及ぼすと言って豊臣秀吉(滝藤賢一)を焚きつけます。
その結果、豊臣秀次の妻子たちは8月1日に翌日の8月2日に処刑されることを伝えられ、三条河原へと連行されることになります。
三条河原の処刑場には仕えていた豊臣秀次の首が塚を築いて置かれ、その首が見下ろす前で豊臣秀次の子供達、側室、侍女、乳母ら全員が斬首され、死体はすべて堀の中に積み上げられたといいいます。
石田三成が助けようとした駒姫とは誰?
映画「関ヶ原」でも豊臣秀吉(滝藤賢一)に石田三成(岡田准一)が駒姫を助けてもらえないかと直談判する場面があります。
駒姫とは最上義光という武将の娘で伊達政宗のいとこにあたる女の子です。
絶世の美女として知られると同時に父母から溺愛されて育ちました。
しかしそれゆえに諸侯が目をつけることになり、豊臣秀次もその美しさの噂を聞きつけ、ぜひとも側室に欲しいと申し出ます。
再三の要求も断り続けた最上義光ですが、豊臣政権の関白である豊臣秀次の申し出を無下に断ることができずに、「15歳になった時には山形から京都の豊臣秀次のもとへ嫁がせる」と了承してしまいます。
そして不幸にも15歳になったのは1595(文禄4)年。
山形からの長旅を癒していた駒姫はまだ豊臣秀次と一度も会ったことがないにも関わらず、豊臣秀次の妻子だということで三条河原で処刑されることになります。
映画「関ヶ原」では最上義光が関白の元に嫁いで権力を得ようとしたこと浅ましく許せないと言い、石田三成(岡田准一)のお願いを跳ね除けます。
この他にも最上義光自身も処刑をしないように助命嘆願をお願いして周り、ついには豊臣秀吉(滝藤賢一)もあまりの嘆願の多さに了承をするも間に合わなかったと言われています。
のちにはこの豊臣秀吉(滝藤賢一)の所業を許せなかったことから最上義光は東軍として関ヶ原の戦いに参戦することになります。
秀吉の謀略か?
一度目の朝鮮出兵「文禄の役」から間もないころに起こった豊臣秀次の粛清は、やはり豊臣秀頼の誕生に起因するものと考えられます。
この二つの出来事が近い時期に起こってしまったために豊臣秀吉(滝藤賢一)は豊臣秀次を粛清する名案を思いついてしまったといえます。
もし豊臣秀頼が生まれなければ、豊臣秀吉(滝藤賢一)は豊臣秀次に対してこのような態度を取らなかったかもしれません。
また徳川家康(役所広司)がこの段階でどこまで豊臣家を滅亡させて、自分自身が天下人となる未来を計画していたのかは定かではありませんが、その計画のうちにあり「豊臣秀次の妻子たちも皆殺しにすることが豊臣秀頼のため」だと言った可能性は高いでしょう。
まとめ
・豊臣秀次とは誰でどんな人?
豊臣秀次は豊臣秀吉(滝藤賢一)のお姉さんの子供、つまり豊臣秀吉(滝藤賢一)の甥っ子にあたります。
豊臣秀吉(滝藤賢一)は息子が死んでしまったために豊臣秀次を跡継ぎに仕立て上げましたが、幸か不幸か待望の息子・豊臣秀頼が誕生してしまい、豊臣秀次は豊臣秀吉(滝藤賢一)にとっては用済みになってしまいます。
・豊臣秀次が秀吉に謀反を起こしたのは本当?
元家臣であった前田玄以らから「本当に謀反を起こそうしているのなら兵を挙げて協力をしたい、もしそうでないなら伏見城へ行ってほしい」と聞かされ、伏見城に出頭しています。
朝廷に金銀を献上した点は気にはなりますが、謀反の意思はありませんでした。
・豊臣秀次は最後自刃したのか?
豊臣秀次は付き従ってくれていた家臣たちを介錯したのち豊臣秀次自身も切腹しました。
・三条河原で処刑されることになった流れは?
豊臣秀吉(滝藤賢一)は豊臣秀次一人の死では満足できずにいました。
徳川家康(役所広司)が妻子もろとも、一人残らず処刑しないと豊臣秀頼の将来にも悪影響を及ぼすと言って豊臣秀吉(滝藤賢一)を焚きつけます。
・石田三成が助けようとした駒姫とは誰?
山形から豊臣秀次のいる京都への長旅を癒していた駒姫はまだ豊臣秀次と一度も会ったことがないにも関わらず、豊臣秀次の妻子だということで三条河原で処刑されることになります。
・秀吉の謀略か?
一度目の朝鮮出兵「文禄の役」から間もないころに起こった豊臣秀次の粛清は、やはり豊臣秀頼の誕生に起因するものと考えられます。
この二つの出来事が近い時期に起こってしまったために豊臣秀吉(滝藤賢一)は豊臣秀次を粛清する名案を思いついてしまったといえます。
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