齋藤義龍とも呼ばれる齋藤高政は、父である斎藤道三を討ったことでその後の人生が大きく変わっていきました。
斎藤道三と関係が深かった明智光秀は、齋藤高政(義龍)と対立関係にあったのか?
また、織田家と敵対する形になった齋藤高政(義龍)は今川義元と良好な関係を築いていたのかについて解説します。
齋藤高政(義龍)と明智光秀の関係と理由
齋藤高政(義龍)と明智光秀の関係性を家系図とともに見ていくとともに、関係の変化やその理由を解説します。
青年時代の齋藤高政(義龍)と明智光秀は友人関係?:可能性はある
大河ドラマ「麒麟がくる」では、青年時代の明智光秀の友人でありながら、徐々に敵対する立場になった斎藤高政(義龍)ですが、実際の2人の関係はどういったものだったのでしょうか。
高政は大永7年(1527年)、美濃国(現在の岐阜県南部地方)の有力な武将である斎藤道三(利政)の長男として生まれました。
一方、光秀がいつ生まれたのかは、はっきりと分かっていませんが、享禄元年(1528年)もしくは永正13年(1516年)に生まれという説が有力です。
「麒麟がくる」では、光秀は1528年に生まれたとして物語が進んでいます。
高政と光秀の年齢がとても近いため、ドラマでは2人が友人であるとして描かれたのではないでしょうか。
義理の従兄弟同士
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もう1つ、高政と光秀には大きな接点がありました。
それは、道三の妻の1人が光秀の叔母だった事です。
戦国時代は、1人の武将が何人もの妻を持つことが当たり前でした。
高政の母親は深芳野という女性で、光秀の叔母とは別の人物なのですが、斎藤家と明智家は親戚同士であるため、高政と光秀は義理のいとこ同士です。
そして、実際に年齢が近かった事を考えれば、2人が比較的幼い頃から交流があったとしても不自然ではないと思います。
高政は光秀にとって邪魔な存在:側室の子
その一方で、2人の関係には問題もありました。
武将の妻にも位付けがあり、正式な妻である正室と、その他の妻である側室に別れています。
高政の母・深芳野は側室で、明智光秀の叔母・小見の方が正室だったのです。
戦国時代、家を継ぐのは基本的に正室の子でした。
例えば、織田信長には兄がいましたが、信長が正室の子であったため織田家の正式な後継ぎとされました。
つまり高政は、必ずしも斎藤家を継げる立場ではなかったのです。
そして光秀の立場から見ると、小見の方の子供が後継ぎになれば斎藤家の中で権力を持つことが出来るため、高政は邪魔な存在だったと考えられます。
結局、天文23年(1554年)に高政が斎藤家を継ぎましたが、これは道三に反発していた家臣たちが、強制的に当主を交代させた結果だとも言われています。
そして翌年、高政は小見の方の息子で、斎藤家の当主の座を奪われる可能性のあった2人の弟、孫四郎と喜平次を殺害しました。
この事が、高政と光秀が対立した最大の原因になったと考えられます。
長良川の戦いで齋藤高政(義龍)と明智家は対立関係:否定する説もアリ
このような背景から、道三と高政が親子で対決した長良川の戦いでは、明智家は道三に味方しました。
ほとんどの家臣が高政に味方したため、道三側として戦った光秀は戦いの後、越前(現在の福井県)へ逃亡したと言われています。
しかし最近の研究で、実は光秀が高政側についていた可能性がある事が分かりました
高政軍に参加した武将の中に、明智十兵衛、つまり光秀の名前が書かれている資料があるのです。(『美濃明細記』)
この説が正しいならば、光秀が長良川の戦いの後に越前の朝倉家に仕えた理由も、高政の命令だったと考えられます。
道三に美濃から追い出された元国主の土岐家は、朝倉家の協力を得て美濃を取り返そうとしました。
高政は、自分が美濃の国主になってからは朝倉家とは敵対しないという事を伝える使者として、光秀を越前に送った可能性があります。
『美濃明細記』は、資料としての信頼性が低いと言われているため、光秀が本当に高政側についていたのかは不明ですが、もしかすると、高政と光秀は互いを認め合い、一緒に美濃をより良い国にしていこうと考えていた間柄だったのかもしれません。
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齋藤高政(義龍)と今川義元の関係と理由
齋藤高政(義龍)と今川義元の関係性はどのようであったのか?
またその理由や関係が構築された時期はいつごろなのか見ていきましょう。
今川義元に攻め込まれる可能性があった
弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤道三を倒し、美濃国(現在の岐阜県南部地方)を完全に支配した斎藤高政(義龍)にとって、将来の強敵になる可能性があったのが今川義元です。
今川義元というと、桶狭間の戦いで織田信長に負けて討ち死にした事から、あまり強い武将だというイメージがないと思いますが、実際は東海地方で最強の大名と言われていました。
義元は、駿河・遠江・三河の三か国(現在の静岡県ほぼ全域と愛知県の東部地方)を支配していましたが、武田信玄、北条氏康と領地が隣り合っていたため、関東地方で争いを続けていました。
しかし天文23年(1554年)、義元・信玄・氏康で三国同盟を結ぶ事に成功し、東側から領地へ攻め込まれる心配がなくなったため、西側の尾張(現在の愛知県西部地方)へ向かって本格的に領土拡大をはじめました。
そのため、もし義元が西へ軍を進め続けるのなら、いつか美濃にも攻めてくる可能性がありました。
高政は義元が美濃に攻めてくるまでの間に、可能な限りの準備をしておきたかったのです。
道三の死で織田家の支援を失う:織田家打倒で利害が一致
道三の時代は、美濃の斎藤家と尾張(現在の愛知県西部地方)に領地を持つ織田家は、同盟を結んでいました。
織田家の当主となった信長と道三の娘・濃姫(帰蝶)が結婚した事、道三が信長を非常に気に入っていた事から、今川家が織田家の領地へ攻め込んだ時には、道三が独断で援軍を送るほど、強い協力関係にありました。
これは義元から見ても、非常にやっかいな問題でした。
しかし高政が道三を討ち取った事で、斎藤家と織田家の同盟は解消されました。
信長は、長良川の戦いでは道三に援軍を送ったため、高政と信長は敵対する事になったのです。
高政と義元が正式に手を組むことはありませんでしたが、織田家を倒すという共通の目的があった事から、お互いを利用し合っていたのではないかと思います。
高政は尾張の反信長派をあおり、信長の兄・信広に謀反を起こさせるなど、織田家を弱体化させる工作を行いました。
信長は、
- 尾張へ攻めてくる今川家への対策
- 織田家内部の問題
- 尾張国内の問題 など
様々な事に対応しなければならず、美濃へ兵を出すことが出来なくなりました。
その間に高政は、
- 隣の近江(現在の滋賀県)へ攻め込む
- 南近江の六角家と同盟を結ぶ
- 幕府から役職を貰う など
斎藤家を強くするために力を尽くしました。
今川義元対策によって織田軍を追い払うことに成功
しかし永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで義元が亡くなります。
勢いに乗った信長は、桶狭間の戦いの10日後には美濃へ攻め込んできました。
この戦いは高政側が勝利していますが、時期を考えると、高政は今川家に対抗する軍を集めていた可能性があります。
対今川家のために戦の準備をしていたため、すぐに出陣することができ、織田軍を追い払う事ができたのではないでしょうか。
これ以降、信長は本格的に美濃を奪うため、何度も攻めてくるようになりました。
そして信長との戦いが続く中、高政は永禄4年(1561年)に急死してしまいます。
今川家と同盟関係にはなかった
もし高政が義元と直接手を組み、斎藤家と今川家が同盟を結んでいたら、桶狭間の戦いの結果は変わっていたのかもしれません。
しかし高政が今川家と同盟を結ばなかったのは、戦いになっても追い払える自信があったからでは無いでしょうか。
そして永禄4年に急死しなければ、信長は美濃を奪う事ができなかったかもしれません。
高政が大名として活躍した期間は5年間と短いため、その能力が評価される事は少ないですが、もっと長生きしたならば、歴史が大きく変わった可能性のある人物だったと言えそうです。
まとめ
・齋藤高政(義龍)と明智光秀の関係と理由
- 青年時代の齋藤高政(義龍)と明智光秀は友人関係?:可能性はある
- 義理の従兄弟同士
- 高政は光秀にとって邪魔な存在:側室の子
- 長良川の戦いで齋藤高政(義龍)と明智家は対立関係:否定する説もアリ
・齋藤高政(義龍)と今川義元の関係と理由
- 今川義元に攻め込まれる可能性があった
- 道三の死で織田家の支援を失う:織田家打倒で利害が一致
- 今川義元対策によって織田軍を追い払うことに成功
- 今川家と同盟関係にはなかった
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