織田信長の父・織田信秀の葬儀では、信長の粗暴な振る舞いをしたという有名なエピソードがあります。
今回は、織田信秀の最期や死因について紹介します。
また、信秀の葬儀の様子や信長の行動、墓の場所や方明について紹介します。
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織田信秀の最期や死因は?
織田信秀の最期はどのようだったのでしょうか?
また、信秀の死因はなんなのか見ていきましょう。
織田信秀の最期は?
今回は織田信長の父、信秀の晩年から最期、その後についてを紹介します。
織田信秀は小さな地方領主だった織田家を、尾張の国(現在の愛知県西部地方)の一大勢力にまで拡大した、優れた武将です。
また、信長の才能を見抜き、後継ぎとするために力を尽くしました。
しかしその後半生は苦しい戦いの日々でした。
きっかけは、美濃の国(現在の岐阜県南部地方)に攻め込んだ時、斎藤道三と戦って大敗した事です。
その戦いで信秀の弟が死亡し、犬山周辺を治めていた甥との仲が悪くなりました。
そして犬山城主である甥と、楽田城主が反乱を起こします。(どちらも現在の愛知県犬山市です)
次に、信秀が美濃に残していた拠点の大垣城(現在の岐阜県大垣市)に、道三が攻めてきます。
信秀はこれを守るために出陣しますが、当時信秀が本拠地としていた古渡城(現在の愛知県名古屋市中区)に、仲の悪かった清州織田氏が攻めてきました。
信秀は仕方なく古渡城まで戻ることになり、大垣城は道三に奪われてしまいます。
今度は三河方面(現在の愛知県東部地方)に勢力を伸ばしますが、今川家の名軍師、太原雪斎に負けてしまいます。
この、周りが敵だらけという状況から抜け出すために、信秀は道三と同盟を結ぶことにしました。
信長と道三の娘である濃姫が結婚し、織田家と斎藤家は親戚同士となりました。
これで美濃方面に備える必要はなくなりましたが、三河方面から攻めて来る今川家には悩まされ続けます。
一気に力をつけた信秀を良く思っていない、尾張の他の領主達との争いもあり、亡くなるまで自分の領土を守るための戦が続きました。
勢力拡大を急ぎ過ぎた事が悪い結果を招いてしまったといえます。
織田信秀の死因:疫病・流行り病
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信秀は天文21年(1552年)、41歳で急死しました。
居城である末森城(現在の愛知県名古屋市)で倒れ、間もなく死亡しました。
お酒が好きで、不摂生が祟ったのか、亡くなる2~3年前から病気がちだったようです。
死因は流行り病だとも、脳卒中や心筋梗塞だとも言われています。
信長の家臣がつけていた記録では「疫病」、つまり流行り病と書かれているので、これが最も有力な説だと言われています。
しかし信秀の死に方ですが、実は上杉謙信の死に方と良く似ています。
謙信もお酒が好きな事で有名なのですが、3月のある寒い日に突然倒れて意識不明になり、そのまま亡くなってしまいました。
死因は脳出血(脳卒中)だと言われています。
梅干しが好きだったと伝わっているので、塩分の取り過ぎも原因だったそうです。
信秀が亡くなったのも3月です。
謙信と同じように、寒さで急激に血圧が上がって倒れ、それが原因で亡くなったとしてもおかしくありません。
また、信長が濃い味付けを好んでいたことが分かっているので、父である信秀も同様に塩分を取り過ぎていた可能性は高いです。
戦国時代には脳卒中という病気は知られていませんから、死因が特定できずに、流行り病としか表現できなかったのではないでしょうか。
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織田信秀の葬儀や信長の行動・墓は?
織田信秀の葬儀の様子、葬儀での信長の行動の意味や理由について見ていきましょう。
また、信秀の墓はどこにあり、法名は何か・どういう意味が込められているのか紹介します。
織田信秀の葬儀
信秀の葬儀は万松寺という曹洞宗のお寺で行われました。
このお寺は、信秀が先祖代々の供養と自分の死後の弔いのために、那古野城(現在の名古屋城がある辺りです)の南側に建てました。
そして叔父である大雲永瑞和尚を呼び、万松寺を任せています。
現在は名古屋市の大須商店街に移されていますが、当時は約5万5千坪の広大な土地を持った、大きなお寺でした。
信秀の葬儀には国中の僧だけでなく旅の僧も多数招かれ、その数は三百人と言われています。
もちろん、喪主は信長です。
織田家の重臣は全員出席し、信長の弟、信行も参加しています。
信秀の力が大きかったことを示す、盛大な葬式だったようです。
同時に、信長と信行それぞれに従う重要な家臣が揃って出席している事から、今後の織田家をどうするかを決める、重要な場でもあった事が分かります。
この頃、信長と信行のどちらが後継ぎとしてふさわしいか、家臣たちの意見が分かれていました。
信秀により信長が後継ぎと決められていましたが、信秀が偉大だったからこそ、実績なしには後継ぎとして認められない状況だったようです。
織田信秀の葬儀での信長の行動や理由:遅刻や抹香
信秀の葬儀には非常に有名な話が残っています。
弟の信行は正装で作法を守って葬儀に参加していましたが、信長は遅刻。
しかも普段着のままで、葬式の途中にやってきました。
現代でいえば、葬式の途中にジャージ姿で入って来るようなものですから、これだけでも相当な奇行ですが、その上、信秀の位牌に向かって抹香(粉状のお香)を投げつけたのです。
これには出席者一同大慌てだったそうです。
この事件ですが、葬式での出来事だとははっきり記されておらず、一周忌の法事で起こった事件ではないか?とも言われています。
ただし、抹香を撒き散らしたという部分はしっかり記録されており、事実のようです。
何故信長はこのような行動を取ったのでしょうか?
信長は父の政策を真似したり、万松寺とも長く付き合っていた事が分かっているため、信秀を憎んでいたとは考えにくいです。
一番の理由は、父が志半ばで死んだ事が悔しかったのだと思います。
当時の信長はまだ18歳ですから、感情的になってそのような行動を取ったとしても不自然ではありません。
信秀ならば尾張を統一するだけの力があったのに、何故急死してしまったんだ、という気持ちを上手く消化できず、父に当たるような真似をしてしまった可能性はあると思います。
しかし、もっと合理的な理由もあったのではないかと思います。
それは家臣や親族の中で、誰が自分の味方で誰が敵なのかを見分けるためです。
この頃、信秀が死んだ事をチャンスと考え、織田家を潰そうという動きが活発になっていました。
実際、すぐに今川家に味方する事を決めた領主もいます。
ですが、味方がいつ裏切るか分からない状態で、周りの敵と戦うのは危険です。
そこで信長は、裏切る可能性のある者をとにかく早く見つけ出して、対処しておく必要があると考えたのではないでしょうか。
信長の罰当たりな行動を見て、新しい当主はダメだからさっさと裏切ろうと考える人物や、織田家を乗っ取ってしまおうと考える人物が出てこれば、油断している内に倒してしまう方がいいでしょう。
逆にそれでも織田家のために頑張ろうと考える忠誠心の厚い人物には、重要な役を任せるべきです。
それを見定めるために、このような行動に出たのではないかと思います。
葬式で罰当たりな行動を取ってでも、この状況を乗り越えて、織田家をもっと大きくする事。
それこそ信秀に対する一番の供養になると考えたのだと思います。
織田信秀の墓:場所や法名の意味
現在、信秀の墓は2か所にあります。
1か所は葬儀が行われた万松寺、もう1か所は信秀が最後に住んでいた末森城の近くにある桃巌寺です。
どちらも戦国時代の武士の墓としては一般的な、五輪塔形と呼ばれるデザインのお墓です。
墓石を塔のように積み重ねたこの形は、故人が極楽浄土へ行けるようにとの願いが込められています。
江戸時代、万松寺が大須に移転した際には、信秀のお墓は寺の奥、地下道の先に移されました。
お墓を大切にするため、そのような場所が選ばれたのだと思います。
このお墓は老朽化により一度撤去されたのですが、なんとクラウドファンディングにより再建されました。
信長人気もありますが、信秀を慕って多くの寄付が集まったそうです。
2018年にお寺の中でも目立つ場所に再建され、万松寺を訪れた人が、気軽に信秀の墓にお参り出来るようになりました。
そのお墓は本堂の横の高い場所から、現在も尾張の国を見守っているように見えます。
桃巌寺のお墓は、末森城を継いだ信行が建てました。
このお寺の名前は信秀の法名にちなんで付けられています。
信秀の法名は「桃巌道見大禅定門」と言います。
織田家の法名には代々「巌」の字が入っているのですが、この中で一番注目して欲しいのは「道見」の部分です。
ここには人柄を表わす文字や、職業にちなんだ文字が使われます。
「道を見る」、つまり先を見通していた人物だったという意味に受け取れます。
これこそ、信秀の人生を一言で表すのにふさわしい言葉だと思います。
まとめ
・織田信秀の最期は?
一気に力をつけた信秀を良く思っていない、尾張の他の領主達との争いもあり、亡くなるまで自分の領土を守るための戦が続きました。
・織田信秀の死因:疫病・流行り病
信秀は天文21年(1552年)、41歳で急死しました。
お酒が好きで、不摂生が祟ったのか、亡くなる2~3年前から病気がちだったようです。
・織田信秀の葬儀
信秀の葬儀は万松寺という曹洞宗のお寺で行われました。
信秀の葬儀には国中の僧だけでなく旅の僧も多数招かれ、その数は三百人と言われています。
・織田信秀の葬儀での信長の行動や理由:遅刻や抹香
弟の信行は正装で作法を守って葬儀に参加していましたが、信長は遅刻。
その上、信秀の位牌に向かって抹香(粉状のお香)を投げつけたのです。
・織田信秀の墓:場所や法名の意味
現在、信秀の墓は2か所にあります。
1か所は葬儀が行われた万松寺、もう1か所は信秀が最後に住んでいた末森城の近くにある桃巌寺です。
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