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古墳はなんのために作られたのか?なぜ大きいのか・大阪に残っている理由についても

大阪府の百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録され、古墳が再び注目を集めています。

これを機に今まで宮内庁が管轄していた天皇の墳墓も研究対象となるかもしれないため、謎とされていた古墳の歴史や理由が分かっていくかもしれません。

今回は、古墳は何のために作られたのか?

なぜ古墳は大きいのか、大阪に多い理由は何なのかについて解説していきます。




古墳はなんのために作られたのか?

古墳な何のために作られたのでしょうか?

まずは成り立ちから考えていきましょう。

古墳は何のために作られたのか?

古墳は日本全国に膨大な量が存在し、いまだに古墳が何のために作られ、どうして前方後円墳や方墳、円墳があるのか?

なぜ大きいのか?などの疑問に明確な答えがなされていません。

現時点で考えられている意見を紹介していきます。

 

古墳は何のために作られたのかを考える時に、一番初めに作られたとされる古墳に注目することで古墳の持つ意味が見えてきやすいです。

最古の前方後円墳と言われているのは「箸墓古墳(はしばかこふん)」という奈良県にある古墳です。


この箸墓古墳から古墳時代がスタートしたと言われています。

 

箸墓古墳の東側に檜原神社(ひばらじんじゃ)という神社があります。

そのまま東側にまっすぐ進んでいくと伊勢斎宮跡があります。

また、箸墓神社から西側にまっすぐに行くと大阪府堺市の百舌鳥古墳群のあたりにたどり着き、大鳥大社があります。

一説によれば、箸墓古墳の東側にある檜原神社や伊勢斎宮跡はともに太陽神・天照大神と関係が深い寺社であり、檜原神社には天照大神が第10代祟神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって奉納され、のちに皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神を伊勢に移しています。

 

箸墓古墳は西側に方墳、東側に円墳がある横向きの形をしています。

箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないか?と言われており、その理由の一つとしてこの方墳が指している先には卑弥呼のいた邪馬台国があったとされる北九州があります。

 

卑弥呼は邪馬台国の巫女として、女性ながらに統治者として君臨していました。

しかし不幸にも247年3月に皆既日食が起こり、太陽が月に隠されているなど意味が分かるわけもなく、巫女としての能力がなくなり太陽神に裏切られた存在として権威を失い命を落としてしまいます。

卑弥呼もあくまで邪馬台国の統治者であったため、九州に平原遺跡という小さい土が盛られただけのお墓を作ってもらっています。

神具でもある鏡が大量に破られて見つかっています。

統治者の墓というにはあまりにも粗末で小さな墓です。

そんな哀れな末路を悲しんだ人たちがおり、奈良県に箸墓古墳を作ったのではないか?と考えられています。

箸墓古墳に眠っているのは倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)という人物で、卑弥呼ではありません。

倭迹迹日百襲姫にまつわる伝説はまさに卑弥呼の最期を表しており、太陽神である夫でもあった人物の正体が蛇であることに気づき、ショックを受けて亡くなったと言われています。

あくまで神話上の人物であり、このストーリーは卑弥呼にも通じると考えられます。

九州の地では報われない死と充分な埋葬をされなかった卑弥呼を弔う気持ちと、太陽神・天照大神との関係を原因に権力を失ってしまった卑弥呼に対して、天照大神に関わる寺社が並んだ延長線上に箸墓古墳を作ったと考えられます。

古墳は端的に行ってしまえば、古墳時代を生きた豪族たちの墓ですが、このようなエピソードが潜んでいると考えられています。

前方後円墳の形の由来や理由・意味は?




古墳には円墳、方墳、前方後円墳があります。

一般的な古墳のイメージは前方後円墳で鍵穴のような形をしています。

どうしてこのような形をしているのかについては江戸時代から研究がなされていますが、いまだに理由は分かっていません。

有力とされている説は

  1. 中国の墓に同じようなデザインのものがあり、墓の様式が伝来した。
  2. 弥生時代に、円墳の周りに堀を巡らした墓があり、円墳と陸を繋ぐ橋が発達して鍵穴の形になった。

などがあります。

今のところ有力視されているのは、円墳と陸を繋ぐ橋が発達して方墳ができて前方後円墳になったとする考えです。

円墳部分に埋葬されている人が収められており、そこに向けて人々が参列に訪れたそうです。

そのときにまつりが行われており、偉大な権力者であればあるほど円墳部分の大きさが大きくなり参列者も多いため、方墳部分の幅も広がったとされています。

ただ、それにしてはあまりにも方墳部分が大きすぎる気がします。

古墳はいつからいつまで作られた?

古墳はまさに古墳時代に作られていました。

次の時代の飛鳥時代になるとほとんど作られなくなっていきます。

3世紀中盤から7世紀ごろまでと言われているので、約250年〜600年代になります。

古墳の数え方は?

古墳はお墓の墓跡と同じように「基(き)」という字を使って数えます。

なので、一基、二基、三基・・・といった感じです。

ピラミッドなども同じで、ある程度大きさのある墓は「基(き)」を使います。

古墳はなぜ大きいのか・大阪に残っている理由は?

古墳はなぜ大きいのでしょうか?

また、古墳はなぜ大阪に多く残っているのでしょうか?何か理由があるのでしょうか?

古墳はなぜ大きいのか理由は?

古墳はなぜ大きいのかに関しても明確な答えは分かっていませんが、ざっくりと言ってしまえば権力の象徴です。

このあたりはピラミッドなどと同じ考え方と言えそうです。

考古学者・都出比呂志(つでひろし)は、大和王権において古墳の形や大きさがその地を統治していた人間の身分を表していると主張し、これを「前方後円墳体制」と名付けています。

1位 前方後円墳
2位 前方後方墳
3位 円墳
4位 方墳

の順序だと主張しました。

しかしこの主張には否定的な意見があります。

その理由は古墳の分布にあります。

都出比呂志の主張によると大和王権の配下の豪族であるほど地方の豪族よりも権力は強いはずです。

つまり近畿地方の古墳の数が最も多いことになります。

しかし実際には近畿地方はそこまで多くありません。

千葉県 733基
群馬県 455基
茨城県 391基
奈良県 312基
福岡県 267基

そのため、考古学者・藤田憲司は「前方後円墳体制」と呼ばれるものは存在していなかったのではないか?と主張しています。

 

なので、なぜ古墳は大きい必要があったのか?という点はシンプルに土地の統治者の力や権威を誇示するためだったと言い切ってしまっても良いでしょう。

しかし、力や権威を示すためならば大きさ以外にも装飾や材質にこだわるなど様々な方法が考えられます。

3世紀後半に近畿地方に前方後円墳が登場すると、間も無く九州や東北南部でもみられるようになっており、日本全国に前方後円墳を作ることの共通した意味が存在したと言えます。

古墳の大きさは時代が進むごとに巨大化の傾向にあります。

もちろん天皇の墳墓は特に大きく仁徳天皇陵は486mもあり、国内最大規模であるため階級がそのまま古墳の大きさに反映されているという見方もできます。

一つの考え方として、権力や階級の高さを表すために建てられたものではなく、「偉大な統治者がいる」ことをアピールするために巨大な古墳が作られていったのではないか?という見方ができます。

邪馬台国を卑弥呼が統治して国を治めることに成功していた時代があっただけに、基本的には争い事を避けたかったため、実際に軍事力の衝突をして死傷者を出すよりも見た目で権力を主張することができるものとして巨大な古墳というものが目安になっていったと考えられるかもしれません。

この場合、仁徳天皇が倹約の人であったことともある程度折り合いがつきます。

租税をなくして自らも屋根の吹き替えをしなかったような人が、国内最大級の古墳を造らせたというのはあまりにも無駄で矛盾を感じます。

そこで、文化として古墳の規模が権力を表し戦争の代わりになっていることを利用して、最も大きな古墳を作ることによってさらなる統治者が出ないようにしたという見方もできそうです。

古墳がなぜ大阪に残っているのか理由は?

百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に認定され、堺市などに多くの古墳が密集していることも話題となりました。

なぜ大阪に多くの古墳が残っているのでしょうか?

すでに触れた通り、単純な古墳の数で言えば千葉県が最多ではあります。

とはいえ、大阪にも古墳が多いのも事実です。

その理由として考えられるのは2点。

一つは日本最大級の古墳である仁徳天皇陵の存在。

二つ目は古墳時代が終わった後の645年・大化改新があったことに難波宮という名の京都が大阪におかれた時代があったこと。

古墳時代は近畿圏に多くの豪族が集まっており、大和政権が強大な権力を担っていました。

京都や奈良もそうですが、歴史的に首都であった場所には過去の遺物が残されやすい傾向にあります。

大阪も古墳時代の中期・5世紀ごろに仁徳天皇陵が作られ、その後大阪に都が置かれたことでそういった古墳群を保存するという価値観が生まれやすかったと考えられます。

まとめ

・古墳は何のために作られたのか?

古墳は端的に行ってしまえば、古墳時代を生きた豪族たちの墓ですが、このようなエピソードが潜んでいると考えられています。

・前方後円墳の形の由来や理由・意味は?

  1. 中国の墓に同じようなデザインのものがあり、墓の様式が伝来した。
  2. 弥生時代に、円墳の周りに堀を巡らした墓があり、円墳と陸を繋ぐ橋が発達して鍵穴の形になった。

・古墳はいつからいつまで作られた?

3世紀中盤から7世紀ごろまでと言われているので、約250年〜600年代になります。

・古墳の数え方は?

古墳はお墓の墓跡と同じように「基(き)」という字を使って数えます。

・古墳はなぜ大きいのか理由は?

古墳はなぜ大きいのかに関しても明確な答えは分かっていませんが、ざっくりと言ってしまえば権力の象徴です。

・古墳がなぜ大阪に残っているのか理由は?

古墳時代は近畿圏に多くの豪族が集まっており、大和政権が強大な権力を担っていました。

 

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シゲゾウ
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アラサーのエンタメ好き兄ちゃんデス。 教育関連の仕事に就いています。 エンターテイメントを肌で体感してあなたに新鮮な感動と興奮する情報をお届けします!!! やってみなきゃ分からない!をモットーに何にでも前のめりで挑戦していきます!!

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