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今川義元はすごい強い武将?領地や評価・織田信長や徳川家康についても

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今川義元は桶狭間の戦いの夜襲で敗北したことで、間抜けな武将だと思われていることがあります。

今回は、今川義元はすごい強い武将だったのか?

政治家としての側面や、武人としての側面と織田信長たちからどのような評価を受けていたのか紹介します。

また、今川家の有していた領地はどれくらいでどのような意図をもって領地拡大を果たして行ったかを解説します。

今川義元はすごい強い武将か評価は?

今川義元はすごい強い武将だったのか、その実力を見ていきましょう。

今川義元の政策:3つの領地・兵士政策

今回は今川義元の実力について、詳しく見ていこうと思います。

実は義元は幼い頃からお寺に預けられていた事もあり、武術自体はあまり得意では無かったようです。

その一方で政治家として領地を治め、それによって軍事力を高める能力に優れていたようです。

まず、領地の安定のために取った政策として特徴的なのは

  • 検地
  • 法律の整備

です。

これにより領民や家臣の実態を把握し、税収の安定化や治安の維持に努めました。

そして、大量の兵士を集めて運用するために、寄親・寄子制度というものを導入します。

これは、今川家の家臣である武士を寄親、普段は農業に励む有力な農民を寄子とし、寄親が寄子を指揮して戦う制度です。

寄親の例としては、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・直虎で有名な井伊家が挙げられます。

戦になると、寄子は自分の使用人と共に寄親の命令に従って戦います。

この制度と、戦に参加した農民は年貢を軽くする、といった特例と合わせる事で、多くの兵士を確保できるようになりました。

そして、戦闘経験の少ない農民たちも組織的に戦えるというメリットもあります。

戦いの前の準備に力を注ぐことで、合戦の最中に効率よく指揮を取れる仕組みを作っておく。

ここに義元の強さの秘密があります。

外交能力の高さ:戦わずに勝つ

そして義元が最も優れていたのは、その外交能力です。

最も有名なのは、武田信玄、北条氏康と結んだ甲相駿三国同盟です。

当時、今川家と武田家、北条家は領地が接していた事もあり、何度も戦が起こっていました。

そして武田家、北条家、どちらも強力な大名でした。

そこで義元は互いの利害が一致する事を伝え、3つの家で同盟を結ぶことに成功しました。

それ以外にも、徳川家康の父が治めていた三河国(現在の愛知県東部地方)も外交政策で取り込む事に成功しています。

戦わずして勝つことを徹底していた事も、強さの秘訣だったと言えます。

 

武芸よりも戦略によって勝つタイプの武将だった義元ですが、ある刀を愛用していました。

宗三左文字、別名・義元左文字と呼ばれる名刀で、武田家から譲り受けた後、桶狭間の戦いで討ち死にするまで愛用していました。

戦国時代の武器というと槍や刀を想像しますが、実は一番重要視されていたのは弓でした。

弓のよる遠距離攻撃を基本として、撃ち漏らした敵を槍で攻撃するのが基本の戦い方だったのです。

では、刀はどんな場面で使われたのかというと、最後の最後、乱戦になった時の護身用の武器でした。

ですから義元は、宗三左文字をいざという時に命を預ける、お守りのような意味合いで携帯していたのでしょう。

桶狭間の戦いで義元のいる本陣が襲撃された時、この刀を振るって一度は敵兵を撃退し、再び襲われた時も戦い抜いて死んだと言われています。

このエピソードからも、義元が勇敢な武将であった事が伺えます。

今川義元の評価は?

今川義元に対する評価としてどのような別名があるのか?

織田信長や徳川家康による評を見ていきましょう。

海道一の弓取り

今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていました。

これは、東海道で最も強い武将という意味です。

義元以前に「○○一の弓取り」と呼ばれた人物は、南北朝時代の宇都宮公綱だけです。

公綱は武勇に優れ、同時代の名将・楠木正成を恐れさせた人物でした。

「海道一の弓取り」との呼び名は、武将に対する最大級の賛辞だったと言えます。

信長は丁重に今川義元を弔った

他にも越前(現在の福井県)の朝倉家を繁栄させた名将・朝倉宗滴は、「今川義元は人の使い方が上手く、良い手本となる人物だ」と書き残しており、織田信長・武田信玄・上杉謙信・毛利元就などと同じくらいの実力者だと評価しています。

桶狭間の戦いの後の、織田信長の行動からも、義元に対する評価が分かります。

信長は討ち取った義元の首を晒し、今川家に勝利した事を大きく宣伝しました。

しかし首を晒した場所には、弔いのため義元塚(今川塚とも呼ばれています)を造りました。

そして1000人の僧にお経を読ませて篤く弔ったという記録が残っています。

更に義元の首は、10人の僧によって義元の本拠地である駿府へ返したそうです。

普通なら、討ち取った後の敵の総大将に対して、そこまで丁寧な対応はしないはずです。

信長から見ても、義元が尊敬に値する武将であったことが分かります。

徳川家康は義元の子孫を保護した

また徳川家康は幼少期に今川家の人質になっており、そこで教育を受けていました。

今川家が滅亡した後、義元の息子は家康を頼り、徳川家から保護を受けました。

そして江戸幕府が開かれると、幕府の家臣として今川の血筋は残りました。

家康は義元に大きな恩を感じていたのではないでしょうか。

この事からも、同時代の武将の義元に対する評価はかなり高かったのではないかと思います。

今川義元の領地はどれくらいで利用方法は?

今川義元の領地はどれくらいで、どのように利用していたのか?

領地拡大の意図は何か見ていきましょう。

今川義元の領地拡大の変遷

今川家が元々治めていた領地は駿河(現在の静岡県中部地方)のみでした。

しかし義元の父・氏親が金山開発に力を入れていたため、駿河では大量の金が取れました。

義元も更に金山開発をすすめ、新しい金属の精錬方法なども取り入れる事で莫大な収入を得る事に成功します。

そして義元は西へ西へと領地を広げていき、東海3か国(駿河・遠江・三河)に渡る広大な領地を支配しました。

これは、現在の静岡県ほぼ全域と愛知県西部地方に渡ります。

この3か国に共通しているのが

  • 東海道沿い
  • 海に面していて港が多い

という点です。

つまり陸と海、両方の物流経路を有効に活用できる土地だったのです。

本拠地の駿河より遠い地域の商人には、自治を任せる代わりに税金を取るといった政策も行っており、財力を活かして安定した領地経営を行っていました。

更に物流網を抑えていれば、戦の時も兵糧や物資の輸送が楽になるというメリットがあります。

米の収穫量のために尾張・美濃へ

しかし、今川家の領地には難点が1つありました。

それは米の収穫量が少なかった事です。

これを解決するため、義元は尾張(現在の愛知県東部)から美濃(現在の岐阜県南部)へと領地を拡大することを考えていたようです。

この2つの国には濃尾平野という農業に適した地域があり、農作物の生産量がとても多いという特徴があります。

残念ながら桶狭間の戦いで討ち死にしてしまい、以降今川家の領地はどんどん減っていくことになりますが、義元は将来を見越して計画的に領地拡大を行っていた事が分かります。

これほどの先見の明を持っていた義元がもし生き残っていたのなら、日本の歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか。

まとめ

・今川義元は強いすごい人か評価は?

  • 今川義元の政策:3つの領地・兵士政策
  • 外交能力の高さ:戦わずに勝つ

・今川義元の評価は?

  • 海道一の弓取り
  • 信長は丁重に今川義元を弔った
  • 徳川家康は義元の子孫を保護した

・今川義元の領地はどれくらいで利用方法は?

  • 今川義元の領地拡大の変遷
  • 米の収穫量のために尾張・美濃へ

 

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シゲゾウ
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