今川義元は織田信長に桶狭間の戦いで負けてしまった愚かな武将というイメージを持たれています。
今回は、今川義元の最期はどのようであったのか、首はどのように葬られたのか?
死因や墓はどこにあるのか?
静岡県や愛知県、豊川市・臨済寺との関係を解説します。
今川義元の最期や死因
今川義元の最期や死因を詳しく見ていきましょう。
今川義元の最期:桶狭間で良勝の指を食いちぎる
今川義元が討ち取られた桶狭間の戦いは非常に有名な合戦ですが、義元が亡くなった時はどんな状況だったのでしょうか。
ここでは、義元の最期について詳しく見ていきます。
まず、桶狭間の戦いは2万5千人の大軍を率いて尾張(現在の愛知県東部地方)を支配しようと攻め込んできた今川軍を、3千~5千人程度の織田軍が撃ち破った事で、織田信長の名前が一気に知れ渡るきっかけとなった戦いです。
今川軍は織田軍の拠点を攻め落としたところで、それを追いかけるために本隊を移動させていました。
その途中、義元は桶狭間付近で休憩を取る事に決めました。
桶狭間は長くて狭い道が続き、大軍が進むには不向きな場所でした。
時刻は13時頃で、天気が崩れ豪雨になり、視界がとても悪くなっていました。
雹が降っていたのではないかとの説もあるほどの悪天候でした。
ですから、ここで一旦休憩するという義元の判断は正しかったと思います。
しかし突然、織田軍が義元のいる本隊に奇襲をかけてきました。
今川軍と織田軍は激しい乱戦になり、義元は300人ほどの兵士に守られながら騎馬で退却しようとしましたが、信長の親衛隊に追いつかれて討ち取られてしまいます。
今川義元を討ち取ったのは毛利良勝という武将でした。
その際、良勝の左指を食いちぎり、首を斬られて亡くなったと言われています。
義元は最後まで、武士として勇敢に戦って死んだのです。
今川家のその後
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総大将であった義元が戦死したことが分かると、今川軍は混乱し、そのまま本拠地である駿河(現在の静岡県中部地方)に向かって撤退しました。
しかもこの時、義元だけではなく今川家の有力武将も多くが戦死してしまいました。
そのため義元の死後、今川家から離反する家臣が続出します。
例えば今川家の人質として幼少期を過ごした徳川家康は、桶狭間の戦いの時点では今川軍と一員として戦っていましたが、義元の死をきっかけに今川家を離れ、独立した大名になりました。
元々の領地すらまともに治めることが出来ない状態になってしまった今川家は、義元の息子・氏真の妻が北条氏康の娘だったため、北条家との同盟によって危機を乗り越えようとしました。
しかし更に不幸な事に、今川家を支え続けた義元の母・寿桂尼が亡くなります。
寿桂尼は政治家としても優秀な人物だったため、今川家と同盟関係にあった武田家も彼女の死をチャンスと考え、敵に回ることを決めました。
そして武田信玄は徳川家康と手を組み、今川家の領地へ攻め込んできました。
もはや自国を守る力すらなくなった今川家は、この戦いで領地をすべて奪われてしまいました。
これにより今川家は滅亡します。
義元の死から9年後のことでした。
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今川義元の墓は愛知県・豊川市か静岡県・臨済寺との関係は?
今川義元の墓はどこにあるのか?
愛知県や豊川市、静岡県、臨済寺とどのような関係があるのでしょうか?
今川義元の墓は愛知県
今川義元の墓はいくつも残っていますが、そのほとんどが義元の本拠地があった静岡県ではなく、愛知県にあります。
なぜ墓が複数存在し、愛知県に多いのか。
その理由は、義元が桶狭間で討ち死にした事と関係があります。
義元が殺された後、織田軍は大将を討ち取った証拠として、その首を持ち帰りました。
そして残った胴体は今川軍が駿河まで持ち帰ろうとしました。
ここでまず、義元の遺体は2つに分かれ、別々に動かされた事が分かります。
そして首は、織田信長が現在の愛知県清須市で晒し首にしました。
今川家の家臣は占領していた織田家の城と引き換えに、義元の首を返して欲しいと交渉します。
義元の首は無事に家臣たちに届けられましたが、季節は初夏で痛みが早く、とても駿河までは持ちそうにありませんでした。
そこで家臣たちは駿河へ戻る途中、今川家と縁がある東向寺(現在の愛知県西尾市)に立ち寄り、この土地に埋葬して弔いました。
更に2人の家臣がこのお寺に残り、代々その墓を守り続けたそうです。
家臣たちの忠誠心の高さと、そこまで慕われる義元の凄さが分かるエピソードでもあります。
首が晒された場所にも、義元を弔うための墓が建てられました。
これは信長が建てたお墓で、ここで供養の儀式を盛大に行ったそうです。
胴体は戦場から運び出したものの、激しく傷ついていたため、駿河まで持ち帰ることができませんでした。
そのため、まだ今川家の領地であった大聖寺(現在の愛知県豊川市)に埋葬する事にしました。
こうして、愛知県内に多くの義元の墓が建てられる事になりました。
そのどれもが、何とかして義元を供養したいという気持ちから建てられたものであり、義元は敵将にも家臣にも尊敬されていた名将だったと言えます
今川義元と豊川市の関係
義元の墓の中でも、愛知県豊川市にある大聖寺の胴塚は非常にユニークな形をしています。
大聖寺は桶狭間から50km程度の場所で、ここから本拠地である駿河まではまだ100kmほどの道のりがあります。
流石に駿河まで運ぶことは難しいと判断した家臣たちは、ここへ遺体を埋めて隠す事にします。
ただし、どこに遺体を埋めたのか分かるように目印を付けておく必要があります。
しかし戦場からさほど遠くないこの場所に、後から織田軍がやって来て掘り起こされてしまっては意味がありません。
そこで考えたのが、境内にあった手水鉢(手洗い用の水を貯めておく鉢)を、遺体を埋めた場所の上に置く事です。
分かりやすい目印ですが、事情を知らない人はまさかこの下に遺体が埋められているとは思わないでしょう。
こうして家臣たちは義元の遺体を隠し、そのまま駿河の国へ戻ります。
その後、義元の息子は父が埋葬されている場所に立派なお墓を建てました。
そのお墓の形なのですが、なんと一番下の墓石が手水鉢のままになっているのです。
更に戦国時代のオーソドックスなお墓の形ではなく、様々な形式を組み合わせた非常に立派な墓所になっています。
この墓の形から、今川義元は身分が高く、名声があり、大きな権力を持っていた大名であった事を表わしている事が分かります。
大聖寺では現在も義元の命日に豊川市が全面的に協力して法要が行われており、義元は領民から尊敬されていた、優れた政治家だったのではないでしょうか。
今川義元と静岡県・臨済寺の関係
今川家の菩提寺である臨済寺というお寺は、義元と深い関わりがあります。
義元は幼い頃にお寺に預けられ、一度出家しています。
その義元のために、父・氏親が建てたのが善得院というお寺です。
後に今川家の跡継ぎ争いが起こった際、義元は前当主であった兄の氏輝をこのお寺に葬り、名前を臨済寺と改めました。
この時住職として招かれたのが、幼い頃から義元の教育係を務め、師匠として、今川家の軍師として、政治・軍事・外交と様々な面で義元を支え続けた僧侶・太原雪斎です。
戦国時代のお寺は、学校のような役割を果たしていました。
特に雪斎は軍師としても活躍していたため、最先端の軍事学を学べる場所として、多くの優秀な指揮官を生み出すことができました。
このように戦国時代は軍事学校として重宝された臨済寺ですが、現在は今川家の歴代の当主を供養するお寺になっています。
お寺の中には歴代の今川家当主の位牌や、義元と氏輝、そして太原雪斎の像が納められています。
そして静岡県内には数少ない、義元のお墓もあります。
ですが一般公開されるのは年に2回だけで、その内の1回は義元の命日である5月19日です。
この事からも、義元と臨済寺に深い結びつきがあることが分かります。
義元の生前から死後まで深く関わっていた臨済寺ですが、ここで少年時代に教育を受けていたのが徳川家康です。
その縁で、江戸時代も徳川家によって臨済寺は守られ続けました。
そのお陰で今川家にゆかりのある資料は、今もしっかりと保存されています。
志半ばで亡くなった今川義元ですが、彼は織田信長と徳川家康に大きな影響を与えた人物です。
だからこそ日本は統一され、江戸幕府が開かれて平和な時代が続く事になったのではないでしょうか。
そう考えると、義元は日本の歴史にとって無くてはならない存在だったと言えます。
まとめ
・今川義元の最期:桶狭間で良勝の指を食いちぎる
今川義元を討ち取ったのは毛利良勝という武将でした。
その際、良勝の左指を食いちぎり、首を斬られて亡くなったと言われています。
・今川家のその後
もはや自国を守る力すらなくなった今川家は、この戦いで領地をすべて奪われてしまいました。
これにより今川家は滅亡します。
・今川義元の墓は愛知県
今川義元の墓はいくつも残っていますが、そのほとんどが義元の本拠地があった静岡県ではなく、愛知県にあります。
・今川義元と豊川市の関係
義元の墓の中でも、愛知県豊川市にある大聖寺の胴塚は非常にユニークな形をしています。
・今川義元と静岡県・臨済寺の関係
今川家の跡継ぎ争いが起こった際、義元は前当主であった兄の氏輝をこのお寺に葬り、名前を臨済寺と改めました。
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