2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公として描かれる明智光秀。
今回は、明智光秀の性格・特徴はいい人ではなく残酷なのかを半生・生い立ちを振り返りながら解説します。
また、明智光秀の逸話とともに血液型や好物・好きなものについても紹介します。
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明智光秀の性格・特徴はいい人じゃなく残酷?
明智光秀の性格・特徴はいい人なのか、それとも織田信長を殺したように悪い人なのでしょうか?
半生・生い立ちを振り返りつつ解説します。
明智光秀の性格・特徴:野心家で我慢強いなど
明智光秀の性格は簡単にまとめると次のようになります。
- 野心家
- 我慢強い
- 行動力がある
- 合理的
- 逆境に強い
- 機転が利く
- 真面目
- 猪突猛進
明智光秀の逸話・エピソードから、どの場面でこうした性格が作られたと言えるのか見ていきましょう。
明智光秀の性格・特徴にまつわる逸話やエピソード:貧しい家庭環境
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明智光秀というと「主君である織田信長を倒した裏切り者」というマイナスイメージがついて回ります。
果たして本当に悪人だったのでしょうか?
まずは光秀の生涯を追いながら、その性格を探ってみましょう。
明智光秀の出生については、いくつもの説があります。
生年月日 | 1528年説、1516年説 など。 |
父親の名前 | 光綱、光国、光隆など10人以上 |
このように定かではありません。
ちなみに2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」では、生年月日は1528年とするようです。
生まれた頃の記録が曖昧だという事は、低い身分の出身だった可能性が高いです。
子供の頃から、高い身分への憧れがあったとしてもおかしくありません。
青年期の光秀は美濃の国(現在の岐阜県南部地方)を治めていた斎藤道三に仕えていました。
しかし道三が息子である斎藤義龍との戦に敗れた事により、各地を転々とする日々を送る事になったと伝わっています。
光秀は越前の国(現在の福井県北部地方)へ逃れ、朝倉義景に10年ほど仕えます。
この時期が光秀の生涯の中で一番苦しかったと思われます。
朝倉家の記録には光秀の名前がほとんど載っていないため、それほど評価されていなかったのでしょう。
にも関わらず10年も仕えたのですから、我慢強い性格であったと思います。
そして将軍家の足利義昭に仕えた事がきっかけとなり、織田信長と対面します。
その際に次のような逸話・エピソードがあります。
光秀は「信長は頼りがいのある男である」と信長のことを褒めています。
それに対し、信長も「光秀に多額の報酬を与えようとした」との記録が残っており、お互いに実力を認め合っていたようです。
信長は優秀な人材を集めて家臣へ取り立てていました。
慣習に捕らわれず、自ら考えて行動できる人物を高く評価する傾向の信長に認められたのですから、光秀も合理的に物事を考えられる人物だったのでしょう。
以降、光秀は本格的に織田家へと仕えることになります。
防衛戦に撤退戦、そして長篠の戦いでの鉄砲運営術など、目覚ましい活躍を見せる光秀に、戦の才能があった事は間違いないでしょう。
こういった功績から、近江志賀郡(現在の滋賀県志賀町)を領地として与えられ坂本城を建築します。
ついに一国一城の主となりました。
この後も重要な役割が次々と与えられ、確実に成果を挙げています。
光秀の戦ぶりや活躍からは、追い詰められた状態を切り抜ける機転の良さ、頭の回転の速さが分かります。
新しい領地を得るたび優秀な家臣を探したり、他の武将や文化人と交流を重ねることで地道に実力を積み重ねる姿から、真面目さもうかがえます。
しかし天正10年(1582年)、本能寺の変を起こして織田信長を討ち取ります。
すぐにゆかりのある武将たちに援軍を求めますが、なかなか良い返事が届きません。
そうこうしている内に中国地方から戻って来た羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍と信長配下の武将が合流し、山崎の戦いが起こります。
光秀はこの戦いに敗れ、最期は落ち武者狩りで命を落としたと伝えられています。
信長は強引な手段で天下統一を進めていたため、反感も多かったようです。
光秀も信長のやり方は間違っていると思い、信長を倒して穏やかに世の中を治める方法を見つけたいと考えたのではないでしょうか。
しかし「自分は正しい事をした。だから周りも賛成してくれるに違いない」という思い込みがあったように思えます。
決めた事に一直線になるあまり周りが見えなくなるという、猪突猛進な一面もあったと考えられます。
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明智光秀の血液型や好物・好きなものの逸話・エピソードは?
明智光秀の血液型と性格の関係はあるのでしょうか?
また、明智光秀の好物・好きなものにまつわる逸話・エピソードを見ていきましょう。
明智光秀の血液型と性格:AB型・A型的な性格
血液型と性格は関連付けられて語られることが多いですが、光秀の血液型は何型だったのでしょうか?
戦国武将の血液型は、遺髪、遺骨、血判などからDNA鑑定で特定することが可能です。
しかし光秀の血液型はまだ特定されていません。
そのため、性格から血液型を推測した結果として、AB型説、A型説が有力だとされています。
A型の性格
- 根性があり努力家
- 気配り上手
- 自分の気持ちを人に見せず、ストレスを溜めやすい
- 完璧主義者
AB型の性格
- 合理性を重んじながら自分の感性に従う
- 感受性豊かなロマンチスト
- 自分の中に秘めているこだわりは人一倍強い
- 二面性がある
AB型とA型の性格イメージはこのようになっています。
比べてみると、光秀はA型ではないだろうかと思います。
真面目で努力家だからこそ、浪人時代の苦労を糧にして着実に成果を挙げることが出来たのでしょう。
朝廷とのパイプ役や大切な接待を任されることが多かったのは、光秀の気配り上手な一面が評価されての事ではないでしょうか。
本能寺の変の真相については様々な説がありますが、信長の今後の展望が光秀の考えと一致しなかったとした場合、
光秀にとって、最もリスクが少なく確実に目的を遂げられる方法が、本能寺での暗殺であると結論付けてもおかしくないと思います。
それでも自分の考えを他人に見破られず、直前まで謀反を悟られなかった。
そんな部分もA型らしいと感じます。
明智光秀の好物・好きなものと逸話・エピソード:和歌と茶の湯・ちまき
光秀が好んでいたものとしては、和歌・連歌と茶の湯が挙げられます。
和歌に関しては、青年期から好んでいたようです。
これは光秀が越前にいた浪人時代、朝倉の家臣と連歌会を催して仕官へのチャンスをつかんだという逸話・エピソードからも伺えます。
また光秀は、室町後期・安土桃山時代の連歌界では第一人者と言われる、里村紹巴から和歌を学んでいたと伝わっています。
紹巴は、光秀の他にも公家である三条西公条に、三好長慶、細川藤孝、織田信長など多数の武将とも交流があった人物です。
壮年期には茶の湯にハマったようです。
こちらは、津田宗及と今井宗久という人物に師事していました。
この2人は堺の商人であり、千利休と並ぶ茶の湯の大家です。
光秀は自ら茶会を開催しては、配下の武将や織田家の武将達を招いていたようです。
光秀が暮らしていた坂本城跡からは焼き物の欠片が多数発掘されており、たくさんの茶器を所持していたようです。
このことからも、茶の湯への入れ込み具合が伺えます。
変わり種の逸話・エピソードとしては、好物として伝わっているちまきでしょうか。
現代では子供の日に食べるお菓子というイメージですが、元々は餅や米などを笹で包んだ食べ物だったようです。
どちらかというと、中華ちまきに近い物だったのではないでしょうか。
戦が始まってしまい、陣中見舞いに差し入れられたちまきを笹の皮ごと食べたという逸話・エピソードもあります。
本能寺の変の数日後にも同じ事があったと記録されています。
大事な場面で食べていたから、好物だと伝わっているのかもしれません。
しかし「京文化に精通していた光秀が、最新の食べ物であるちまきを好んでいた」というのは納得できると思います。
明智光秀はいい人ではなく残酷?:目指す未来を持っていた人物
光秀の性格が伺えるエピソードには、良くも悪くも一般的な光秀像からは離れたものが多くあります。
まず、光秀は愛妻家だった逸話・エピソードがあります。
光秀の妻は煕子という女性です。
彼女は結婚直前病気にかかり、左頬に痕が残ってしまいました。
しかしそれを気にせず煕子を妻に迎えました。
顔の美しさよりも内面を大切にする、光秀の誠実な一面が垣間見えます。
更に領主としても優れた人物だったようです。
丹波国を統治していた時期には、暴れ川であった由良川に堤防をつくり、領民を水害から救いました。
また国衆と呼ばれる集団が農民を脅して税の一部を奪っていましたが、これらを退治して農民を助けたという逸話・エピソードがあります。
光秀の霊が京都府福知山市の御霊神社に祀られ、現在も市民に慕われている事からも、良い領主だった事が伺えます。
以上の逸話・エピソードからは光秀の優しさが分かりますが、逆に彼の残忍さを表わす話もあります。
それは、光秀が比叡山延暦寺攻めの中心人物だったという話です。
延暦寺攻めと言えば比叡山の焼き討ちが有名で、信長の怖ろしさや苛烈な性格を表わす出来事だと言われています。
しかし焼き討ちは光秀が進言したという説があり、「どんな犠牲を払ってでも天下統一をやり遂げる」という強い意思と、そのためには犠牲をいとわない激しさを持っていた人物なのではないでしょうか。
光秀の生涯や逸話・エピソードを見直してみると、「いい人か悪い人か」は意見が分かれるところです。
個人的な感想ですが1人の武将として見た場合、「自らが目指す世の中のあり方と真剣に向き合っていた人物」という印象が強く、悪い人では無かったと思います。
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まとめ
・明智光秀の性格・特徴:野心家で我慢強いなど
- 野心家
- 我慢強い
- 行動力がある
- 合理的
- 逆境に強い
- 機転が利く
- 真面目
- 猪突猛進
・明智光秀の性格・特徴と半生や生い立ち:貧しい家庭環境
生まれた頃の記録が曖昧だという事は、低い身分の出身だった可能性が高いです。
子供の頃から、高い身分への憧れがあったとしてもおかしくありません。
・明智光秀の血液型と性格:AB型・A型的な性格
光秀の血液型はまだ特定されていません。
そのため、性格から血液型を推測した結果として、AB型説、A型説が有力だとされています。
・明智光秀の好物・好きなもの:和歌と茶の湯・ちまき
光秀が好んでいたものとしては、和歌・連歌と茶の湯が挙げられます。
変わり種としては、好物として伝わっているちまきです。
・明智光秀はいい人か悪い人か:目指す未来を持っていた人物
光秀は愛妻家で領主としても優れた人物だったようです。
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